Fake Sunshine―18years ago―


 未だ住み慣れぬこの六畳間。
 その窓から射すまばゆい光に、僕は吐き気を感じた。
 また、「今日」が始まるのだ。
 学生というある種特権階級に生きる僕が、何をしたところで、誰にも迷惑なんてかからない。いや、そんな大袈裟な迷惑をかけることすら、僕にはできないのだ。
 そして・・・この苦痛の現状も変わらない・・・変えられなかった。
 僕は、家出したのだ。
 こう言うと、いい年をして恥ずかしい、と思われるかもしれない。しかし、僕には耐えられなかった。
 大嫌いな親兄弟に囲まれ、自分を殺し、生きて行く・・・。
 考えるだけでも寒気がする。この21年間、我ながらよく我慢したものだ。
 しかし、それももう限界に達した。
 僕は、変化が欲しかった。
 そうすれば、それをきっかけにして、苦痛を打破できると思い込んでいたのだ。
 だが、僕にできたのは所詮この程度。
 さらに悪いことに、きっかけなんかがあったって、苦痛の日々は変わらなかった。
 理由は・・・そう、圧迫と焦燥。そしてそれを生み出す他人。
 他人は、決まって僕を理解しようとし、いつもそれに失敗する。
 そしてそのまま「思い込み」が、彼らの中の「僕」となる。
 ・・・僕は「僕」にならねばならない。
 そうでなくては、僕に価値はない。
 本当の、ありのままの僕を見せてはいけない。それが、人間関係というものだ。不器用な僕には、そうするしかなかった。きっと、これからも変わることはないだろう。
 そして僕は、無意味に急き立てられる。
 言葉にならぬ、実在せぬ期待。
 僕の感じる、透明な他意。
 理不尽。
 不条理。
 憂鬱。
 苦痛。苦痛。苦痛。
 −ああ、壊れている。
 僕は、光が入らぬようカーテンをぴったりと閉じ、もう一度ベッドの中に身を沈めた。

 微かな物音で僕は目を覚ました。
 「・・・一葉(かずは)?帰ってきてたのか」
 僕は、ベッドの側のテーブルでコーヒーを飲んでいる男に声をかけた。
 「ああ、悪いね、朔也。起こしちゃったかな」
 「・・・いや、どうせ二度寝だ」
 「ふふっ、大層な身分だね。講義は出なくて良いのかい?」
 一葉が笑って言う。
 彼はかなりの美男で、彼が微笑むと大抵の女性は好意的な態度になるようだ。その特性を活かして、ホストのバイトをしていたりする。
 「今日は休み。君こそ大層な身分じゃないか。昨夜はどこの女性をたぶらかしたんだ?」
 と、僕は乱暴に答えた。
 「おや、ヤいているのかな?」
 「・・・まさか」
 僕は、のそりと起き上がり、彼の向かいに座った。
 彼が、先程とは種の違う微笑を浮かべて・・・僕に口付ける。
 コーヒーの嫌な臭いがして気持ち悪い。
 そう・・・一葉は、僕の家出先の主であり、
 −僕の「彼氏」だった。
 「あ、朔也。・・・例の手紙、また来てたよ」
 ため息混じりにそう言うと、一葉は僕に一通の手紙を寄越した。
 ああ、またか。
 ここ一月、週に一度のペースでこの手紙が来る。
 差出人の名前はどこにも無く、ただ「相原朔也様」とだけ書いてある封筒の中に便箋が一枚だけ入っている。そして決まって一言こう書いてあるのだ。
 「愛しています」
 最初は薄気味悪かったが、不思議と慣れてしまった。
 まあ、今回も同じ文面だろう。
 そう思い、僕は封筒を破り開け、中の便箋を広げた。
 そこには、予想に反してこう書いてあった。
 「愛しい朔也様。もし、貴方がこの私に少しでも興味がおありでしたら、今日の13時、下記の場所までお越し下さい・・・」
 「ん?何だって?」
 一葉が、便箋を覗き込もうとする。
 僕は何故か慌てて便箋を隠すように折り畳むと、
 「いつも通りさ」
 と、誤魔化した。
 一葉は、多少怪訝な顔をしたものの、別にそれ以上言及することも無く、残りのコーヒーを飲み干した。
 ・・・妙な手紙だ。こんなことを書いて、本気にする人間などそうはいまい。
 僕はいつものように、便箋を封筒と一緒にくしゃくしゃと丸め、ごみ箱に投げ捨てた。
 かさっ。
 紙くずは、ごみ箱の縁に蹴られ、中には入らなかった。
 「もてる男はつらいね」
 一葉が皮肉を言う。
 「ヤいたか?」
 「・・・少し、ね」
 本気に取られるとは思わなかった。
 ・・・これはこれで、違和感を感じてしまう。
 ごみ箱に嫌われた紙くずが、妙に目についた。

 13時に、僕の(正確には一葉の)家の側の駅前広場。
 そこが指定された場所だった。
 ・・・本気にする人間などいまい、と思いつつも出掛けてしまう自分が何だか滑稽に思えて、僕は苦笑した。
 肌寒い。
 僕はコートのポケットに手を突っ込み、建物の壁に寄り掛かった。
 この季節の肌を裂くような風が嫌いじゃないとはいえ、おそらく待ちぼうけを食うのだ。長時間風に当たるのも考えものだろう。
 平日の駅前広場だというのに、何故か絶えずに人が流れていく。
 その人々のあるはずも無い視線が、嫌に痛い。
 「彼らの中の僕」はどのような存在なのだろう。そう思うと、吐き気がする。
 13時、5分前。
 待ち合わせの時間に10分は余裕を持たせる癖が、馬鹿らしく思える。
 −馬鹿らしい、か。
 今更何を考えているのだ。ここに来た、と言う事実だけで既に馬鹿らしいと言うのに。
 そんなことを思っていると、一人の女性が僕のほうに駆け寄って、声を掛けて来た。
 「・・・朔也さん」
 予想外の出来事に、僕は驚き、その勢いで答えてしまった。
 「あ・・・はい」
 「よかった、やっぱり来てくれた」
 彼女が、微笑んで言う。
 ・・・どこかで見たことのある顔のような気がする。
 身長は160程度、髪はセミロングと言ったところか。肩までで揃えてある。それに、化粧っ気の無い、でも、人形のような可愛らしい顔つき。
 ・・・思い出せない。
 まあ、ただの思い違いだろう。
 そっと、そのどことなく幼さを残した唇が揺れる。
 「取り合えず、喫茶店にでも入りましょう」
 呆然とした僕を引きずるように、彼女は僕の手を引いて近くの喫茶店に入った。
 何だか、彼女のペースに振り回されてしまっている。
 そもそも、最初から悪戯だと思って心構えをしていなかったのだから、それも当然のことか。
 僕らは、入って手前から二番目の席に座った。窓の外にはいつも通りの世界が広がっているが、窓を隔てたこの店内は、まるで異世界だ。
 それも・・・この目の前の女性のせいか。
 あの、奇妙な手紙から感じられる異常な雰囲気は、この女性からは感じることはできない。もっとも、巧妙に隠しているだけなのだろうが。
 「朔也さん、何にします?」 
 不意に、彼女が話しかけて来る。
 僕が彼女に目をやると、彼女はさっとメニューを差し出した。
 「ああ、そうですね・・・じゃあ、レモンティーを」
 と、彼女は間髪入れずに僕に言葉を返してきた。
 「あ、ここの紅茶、朔也さんの嫌いなダージリンですよ。やめておいた方がいいんじゃないですか?」
 「え?」
 何故・・・僕がダージリンが嫌いだと知っている?
 「じゃあ、えっと、コーラ」
 この寒い時期にコーラはないだろう。そう思ったが、咄嗟に、目に付いた商品名を口に出していた。
 「コーラですね。・・・あ、すみません」
 彼女が、通りかかった店員を呼び止めて注文する。
 ・・・僕は、ほぼ錯乱状態であった。
 確かに僕は、ダージリンが好きではない。
 紅茶は好きでよく飲んでいるが、ダージリンの、あの人に媚びたような香りだけは好きになれないのだ。
 しかし、僕はそのことを家族はおろか、一葉にすら話していない。
 だから、一葉が淹れてくれる紅茶はいつもダージリンだ。彼の中の僕は、この香りを好んでいるらしい
 「今日は、わざわざ呼び出しちゃってごめんなさい」 
 彼女が言う。
 「はあ・・・」
 先程の確信をもった何気ない一言が、僕に重くのしかかる。今の僕は、彼女の言葉に対して気の抜けた返事をするのがやっとだった。
 「どうしても・・・朔也さんに、話しておきたいことがあったの」
 彼女の口調が、徐々に馴れ馴れしいものへと変わっていく。
 いや、そんなことよりも・・・。
 −この女性は、一体、誰なんだ?
 その一事だけが、僕の脳を支配していた。
 「あ・・・いや、それより−」
 しかし、言葉が出ない。まさか直接「誰?」などとは聞けないだろうし・・・。
 僕があれこれ悩んでいると、彼女が、軽く微笑んで言った。
 「あれ?朔也さん、もしかして、私のこと知らない・・・のかな?」
 僕は、ゆっくりと頷いて見せた。
 「あ、やっぱり・・・。そうかぁ、気にも掛けてもらえてなかったのかなぁ」
 そこで彼女は、苦笑したまま大きくため息をついた。
 「私、朔也さんと同じ大学の藤崎愛良(ふじさき・あいら)っていいます。うぅん、実は、学部もクラスも同じだし、講義のときも近くの席に座れるように頑張ったんだけどなぁ」
 うん?同じ大学・・・?
 僕は、最近休みがちな大学の教室内を思い出す。
 ・・・そう言えば、僕の近くによく同じ女性が座っていたような・・・。
 そうか、あの人か!
 僕はようやく思い出した。そうだ、大学でよく見かけた顔だったのだ。
 「あ、もしかして、思い出しました?」
 「う、・・・うん、思い出した」
 すると、彼女−藤崎さんは、その人形のような顔に満面の笑みを浮かべた。
 その笑顔に、僕は少しだけ、どきりとした。
 「よかったぁ。苦労して近くの席を確保した甲斐があったのね」
 「まぁ・・・」
 普通の・・・女性だな。
 僕は今、目の前に座っている彼女を見てそう感じている。
 そう思うと、ただでさえ希薄な現実感が、更に薄れていく感覚に見舞われた。
 この女性と、あの手紙の女性。
 二つを結び付ける記号がイコールであることに僕は戸惑いを感じたのだろう。
 そんな非現実的な空間の中で、僕の脳は逆に冷静になっていった。
 「ところで、藤崎・・・さん?話っていうのは・・・」
 「あ、愛良って、呼んで下さい」
 「ああ・・・じゃあ、愛良さん」
 「はいっ」
 彼女が、微笑む。
 本当に嬉しそうに笑う人だな。
 「あの・・・ですね」
 その笑顔が、急に堅いものになる。何か・・・言い難いことなのだろう。
 「はっきり、言います。私と・・・付き合ってください」
 「はっ・・・?」
 僕は一瞬、キョトンとしてしまった。
 「手紙にも書いた通りです。朔也さん・・・愛しています」
 彼女の表情は、真剣そのものだ。僕をからかっている訳でも・・・ないように見えるが。
 「そんな・・・あ、愛してるって・・・」
 「そう・・・ですよね。いきなり、良く知らない女の子にそんなこと言われても・・・困りますよね」
 彼女の目が、寂しそうに窓の外へと向かう。
 「でも、本当なんです。初めて会った時から、好きでした」
 キッと、彼女は僕の目を見て言った。
 何故だろう、僕は・・・僕の心臓は、急激にその運動を速めている。
 困ったことになったな、とは思ってなどいなかった。きっと僕は・・・喜んでいるのだ。
 知らない人に告白されて、心底嬉しく思っているのだ。
 僕は、そんな自分が嫌になった。
 「あの・・・私、知ってるんです。その・・・一葉さんっていう方とのことも」
 僕は、その名前を聞いて少し罪悪感を感じた。彼とは恋人同士であるにもかかわらず、今の今までその名を思い出すことすらなかったのだ。普通なら、付き合っている人がいる、と言って断るのだろうに。
 所詮、僕と一葉の仲なんて、そんなものなのだ。
 僕は、黙っていた。
 「彼は・・・朔也さんのこと、本気で好きなんじゃないと思うの」
 確かに、そうかも知れない。
 彼は、他の人と同じだ。僕を分かろうとし、失敗して、それでも分かったつもりでいる。
 僕は、そんな一葉が家族と同じくらいに嫌いなのだ。
 一葉は、僕の外見が好きらしい。よく僕の顔を誉めるし、二人の時は暇さえあれば僕を眺めている。
 「私は、そんなことない。朔也さんのこと・・・本気で愛してるから」
 彼女が、そう続ける。
 「私、いつでも・・・貴方を見てる」
 イツデモ・・・見テル・・・?
 僕の頭の中に、その言葉が響いた。
 まさか・・・?
 「いつでも、見てる・・・」
 僕は、馬鹿みたいにその言葉を口に出して反復した。
 「そうよ・・・愛しい朔也さんのことだもの、何でも知りたいの」
 彼女が、妖しく微笑む。
 「どんな食べ物が好きか。趣味は何か。好きな音楽は何か。それに、ちょっとした癖とかも。・・・朔也さん、気付いてる?朔也さんね、嫌なことを我慢するとき、左手だけがちょっと強張るんだよ」
 彼女は、本当に・・・嬉しそうに笑う。
 やはり、手紙の主と目の前の女性は同一人物だ。彼女は・・・僕を監視するように見ていたらしい。
 ダージリンのことも、そうやって知ったのだろうか?
 だとしたら、かなりの観察眼だろう。何せ、一緒に暮らしている一葉ですら気付いていないのだから。
 しかし、そう考えるとつじつまが合うし、また、そうとしか思えない。
 ・・・本当に見られていたのだ。
 そして僕は、背中に甘い痺れが走るのを感じた。
 この感覚は・・・そう、週に一度来るあの手紙を読むときの感覚。
 彼女の、狂おしい程の感情が、僕を包む。
 本当に・・・見られていたのだ。
 「私が、どれだけ貴方を愛しているか・・・分かる?」
 彼女が、その愛らしい瞳をわずかに細めて、僕を見つめる。
 ああ、この目。
 この目で、僕を・・・。
 「貴方しか・・・見えない」
 彼女が、僕の手に触れる。
 ぴりぴりと、電気の粒のようなものが僕に伝わった。
 それは、僕の手から腕、肩、そして首を通って、脳へと至る。
 気が付くと、彼女の手を引き寄せ、口付けていた。
 −貴方シカ・・・見エナイ。
 僕はずっと、この言葉を求めていたのかも知れない。

 「そのバッグ一つでいいのかい?」
 「うん。荷物なんて、無いに等しいからな」
 「まあ、そうかもね。・・・しかし、何だか寂しくなるよ」
 「・・・そうかもな」
 僕はそう言うと、手元のバッグを持ち上げた。
 僕は今日、ようやく自分の家へと帰るのだ。
 そのことを一葉に話したのは、つい昨日、愛良を見送ったすぐあとだった。
 一葉は特に何も言わず、そうか、とだけ答えた。何だか、その一言で僕の罪悪感は少しだけ軽くなったような気がした。
 彼は、きっと知らない。僕のこの微妙な変化のことを。おそらく、またいつもの気まぐれだ、程度にしか感じていないのだろう。
 僕は、今度こそ変われるはずだ。
 自分自身への理解と、彼女からの深い愛情。
 その二つのきっかけがあれば、僕はきっと変われるはずなのだ。
 ならばもう、恐れることはない。
 勿論、不安は尽きないし、今までの苦痛の全てが好転する訳ではないだろう。
 でも、何とかなりそうな気がする。
 僕は、しばらく会っていない家族の顔を思い浮かべると、心の中で少しだけ笑った。
 「じゃあ、また」
 一葉が、玄関口で僕に言う。
 「ああ、今まで、ゴメンな」
 僕はそう言うと、ドアノブに手を掛けた。
 「今度こそ、うまく行くと良いね」
 はっとして、振り向く。
 そこには、どこか悲しげな一葉がいた。
 彼は・・・もしかして、気付いていたのだろうか。
 「一葉・・・」
 一葉は、何も言わない。彼はいつもそうだ。
 僕は、小さな笑みを浮かべ、彼に最後の−そして、僕からは初めてのキスをした。
 「さようなら」
 僕は一言そう呟くと、ゆっくりとドアノブをまわし、眩しい光の射す外へと出て行った。
 「困ったことがあったら、いつでもおいで」
 彼の最後の言葉が、耳に響く。
 冬だというのに、とても暖かな今朝。時間もまだ早く、辺りでは小鳥たちがさえずっている。僕は少しだけ、その日差しが好きになった。
 わずかに、コーヒーの臭いが口の中に残っている。いつか、この臭いも忘れてしまうのだろう。
 そう思うと何故か、僕の瞳から涙が一粒零れていった。
 僕は大きく欠伸をし、それを朝のせいにした。


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