Instead of ・・・



 ただ、ひたすらに君のことを愛しているから――


 「ねえ、マサト・・・」
 甘い声で、ヒビキが言い寄る。
 彼女のこんな仕草の裏が読めないほど、俺は朴念仁ではない。
 軽く頬に触れ、そのまま彼女に口付ける。
 「マサト、私・・・」
 頬を赤らめながら、俺の手を握る。そしてそのまま、そのふくよかな胸へと導いていく。
 とくん、とくん・・・。
 手の平から伝わる、彼女の鼓動。愛おしく響く、生命の音。
 そのまま、ヒビキの上着を脱がす。彼女は恥じらいの表情を見せるだけで、俺を止めようとはしなかった。
 ――今日こそは。
 一枚ずつ、彼女の衣服を脱がしていく。
 その官能的な過程をもってしても――駄目だった。
 下着だけを残したところで、俺は手を止める。
 「どう・・・したの?」
 いつものヒビキからは考えられないほど小さな声で、彼女は訊いてきた。
 「やっぱり、止めておこう」
 「・・・そんな」
 「い・・・いや、まだ早いよ。俺・・・まだ就職も決まっていないだろう? 責任を取ろうにも、今の俺じゃあ・・・」
 口から出るままに、俺は言い訳を並べ立てる。
 「そんなこと・・・どうだって良いのに」
 「どうだって良いわけないだろう。これでも俺は、ヒビキのことを真剣に想っているんだぞ」
 「それは――分かってるけどサ・・・」
 不満げな顔でヒビキは俺の胸に頭を預ける。
 「・・・エッチくらい、してくれても良いじゃない」
 小声で、ヒビキが言った。
 「ん? 何だって?」
 俺は、聞こえない振りをする。
 「何でもないっ」
 「・・・そうか・・・」
 俺は、罪滅ぼしのつもりで、その髪をそっと撫で下ろした。
 ――何て卑怯な男だろう。
 頭の中は、罪悪感と自己嫌悪でいっぱいだった。


 俺がその事実に気付いたのは、高校を卒業する寸前――初めてヒビキの家で二人っきりになったときだった。
 いつもは大体彼女の母親や弟が家にいるのだが、その日はその二人も家を空けていて、帰ってくるのは夜になるという。
 いつも通りに会話して、勉強を教えて――ふとした拍子に、俺はヒビキを抱き締めていた。
 彼女も拒む様子はなかった。そのまま、最後まで行ってしまおうと思っていた。
 しかし・・・俺の男としての機能は、それに付いて来てくれなかった。
 その場は適当に誤魔化したが、内心では焦っていた。何度も彼女にこのような恥をかかせるわけにはいかない。次こそ・・・次こそ。
 それから何度かこんな雰囲気になることがあった。だが・・・今に至るまで一度として反応することはなかった。
 病気ではないかと思ったが、それ以外の時は――恥ずかしいほどに反応してしまう。つまり、実際にヒビキを目の前にするとどうしても駄目なのだ。
 きっと、「何とかしなければならない」というプレッシャーのようなものに基づく――いわゆる心因性のものなのだろう。
 つまり、俺自身の心が弱いということだ。
 高校卒業後、就職に失敗した俺は、フリーターという不本意な道に進まざるをえなかった。
 勿論、このままの状態ではヒビキと結婚などできるはずもなく・・・俺はさらに追い込まれた。自信を失った。
 現在の不安、そして未来への不安。
 潰されそうな重圧の中、それでも俺は表面だけは強気で通した。こんなことで、ヒビキに余計な心配をかけたくなかった。
 強く、なりたかった。
 ヒビキを支えていけるように。一生、二人で生きていけるように・・・。


 「マサトさんとヒビキさん、すっげーお似合いですよね」
 「そう・・・か?」
 「はい。なんか・・・クールなマサトさんと情熱的なヒビキさんって対極的なんですけどね。何故か・・・ぴったりハマってるっていうか」
 隣に越してきた一つ年下のコウイチは、そう言って笑った。
 他人から見れば、そうなのかも知れない。しかし――依然として俺の心には余裕は生まれなかった。
 ある時、俺はヒビキに尋ねてみた。
 「俺・・・就職するよりも、大学に進んだ方が良かったのかな?」
 「どうしたの? 急に・・・」
 少し困った顔で、ヒビキは訊き返す。
 「就職すれば・・・それだけ早くヒビキを幸せにできると思ったんだ。だから、一刻も早く一人立ちしたかった・・・でも、その就職ができないのでは話にならないだろう」
 そこで彼女は、うーん、と少し唸りながら考える。
 「あのさ、マサトは・・・私を幸せにしてくれるんでしょう? その気持ちだけで、私は充分だよ」
 「だが――」
 「もう、今はそんなこと気にしなくていいのッ!」
 そんな言葉と共に、彼女はその唇で俺の言葉を止めた。
 その日も――いつも通り、彼女を抱くことはできなかった。


 高校を卒業して3年以上の年月が経った。
 彼女の態度は、露骨なまでに積極的になっていく。不安なのは俺だけじゃない――そういうことだろうか。
 以前は月に一度程度だったのが、ここ最近は毎日のように俺を誘ってくる。
 そしてこの日も、淫らな衣服で、そして態度で・・・。
 それによって、さらに輪をかけて居た堪れなくなったのか、そんな彼女の努力は報われることはなかった。
 それどころか――俺は近頃の彼女のそんな態度が、次第に煩わしいとさえ思うようになっていたのだ。
 無論ヒビキのことは変わらず愛している。それは断言できる。しかし、毎夜のように誘われるようになって――彼女が俺に対して不満を持っていることが、手に取るように分かるようになった。
 女性は男性に比べ性欲は薄いと聞く。
 それなのに、この執拗なまでのヒビキの態度は・・・。

 もはや、俺に対する糾弾だ。

 悪いのは誰だ?
 悪いのは、心の弱い俺だ。
 悪いのは誰だ?
 悪いのは・・・

 理解しようとしない、ヒビキだ。

 頭に血が上る。間違った理論に支配される。
 気が付けば――俺は、ヒビキを殴っていた。
 驚いた彼女の表情を見て、息を飲む。殴られた彼女以上に、自分が驚いていた。動けなかった。
 とにかく――謝らねば。俺がしたことは、明らかに間違っている。
 謝らねば――
 「ごめんね、マサト・・・ごめんなさい」
 俺が口を開くよりも先に、彼女は謝罪の言葉を述べていた。
 どうして?
 どうして、ヒビキが謝る必要がある?
 悪いのは、心の弱い俺なのに・・・。
 何も言えなかった。
 ただ、不思議な高揚感だけが全身を駆け巡っていた。
 身体が震える。
 何だろう、この感覚は・・・。
 申し訳なさそうに、涙目で謝るヒビキを見て。

 俺は・・・何故か、嗤っていた。


 ――それが、圧倒的なまでの支配感であることに気が付いたのは、それから数日後のことだった。
 俺は再びヒビキを殴った。
 その瞬間に訪れた、快感ともいえる感覚・・・。
 最愛の人を殴る快感。そして相手が自分に従ってくれる快感。
 倒錯した興奮に、弱い俺の心はあっという間に虜にされてしまった。
 軽く殴るだけで、彼女は俺に従う。支配することができる。
 俺は笑顔でヒビキを殴った。
 それだけで射精してしまうことすらあった。
 そう、暴力は――性的不能である俺にとって、セックスの代替行為なのだ。
 世界で一番、君のことを愛している。
 素直な想いは、歪んだ形で――数年の時を経て、ようやく成就された。
 憎いわけじゃない。
 ただ――愛し過ぎて。


 「私のこと・・・嫌いになったの?」
 悲しい瞳で、彼女は俺を見る。
 ああ、そんな目で、俺を見ないで。


 俺はただ――ひたすらに君のことを愛しているだけなのに。





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