第壱窓:日の丸・君が代

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて こけのむすまで
うごきなく 常盤かきはに かぎりもあらじ

君が代は 千尋の底の さざれ石の 鵜のゐる磯と あらはるるまで
かぎりなき みよの栄を ほぎ奉る

<日の丸>
日の丸は1854年に徳川幕府によって日本という国家の旗印として決められ、そして、幕府に代わって政権を握った明治政府も、それ以降の政府も、日の丸という国旗を変更することなく受け継いできた。日の丸は、日本が戦争を行った侵略の旗だから使いたくないという意見もあるだろう。しかし、どの民族の歴史にも影の部分がある。と、同時に光の部分もある。日の丸は侵略の旗であると同時に、民族の独立を意味する栄光の旗であった。歴史を振り返れば、日の丸を国旗として使ってきたという歴然たる事実がある。

<君が代>
世界の国歌と比べてみると君が代はずいぶん歌詞が異なっていることに気付く。フランスの「ラ・マルセイエーズ」は「悪魔の如く敵は血に飢えたり・・・」といった闘いの歌である。アメリカ国歌にも「弾丸が降る、戦の庭に・・・」、中国国歌もまた「我らの血肉で築こう、我らの新たな長城を・・・」と多くの国歌が激しい内容の歌詞を持っている。東西冷戦が崩壊して統合となった、ドイツでは、結局昔の国歌を歌う事にしたが、1番と2番の歌詞は過激すぎるから3番の穏健な歌詞だけを歌うことに政府が決めた。こうしてみると「千代に八千代に・・・」といった悠長な歌詞を持つ国歌ははなはだ異色といってよい。他に似たような内容の歌詞としては、王室の繁栄を願うイギリス国歌「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」ぐらいである。

<歴史的観点から>
「日の丸・君が代」に反対する人々の大きな根拠は、先の戦争で日本軍の象徴として使われたからであろう。確かにあの戦争は日本の側から武力を発動したという意味では「侵略戦争」であろう。しかし、その一方で幕末から周囲を白人帝國主義に囲まれ、その中で唯一白人達に屈しなかった姿勢は多いに誇るべきでもある。戦争としての軍事的・政治的な戦略・戦術においては日本人は稚拙なところもあったし、失策もあった。けれどもそれを悪し様に言えるのは現代の人間だから言える事であり、自分達がその時代に生きてもいないのに、今の知識や条件で批判してはならない。まして個々の旧兵士、祖父達の世代の方々にはあの悲惨な戦争に参加した事を労って感謝や哀悼の意を表すべきなのである。戦争の悲惨さは誰もが十分にわかる事であろう、そんなこと誰もやりたくない。しかし、だからこそ個々の旧兵士の方々には敬意を払うべきなのだ。スピルバーグの「プライベート・ライアン」といった映画がある。最初と最後のシーンで旧アメリカ兵士達にそういった意を表すべくアーリントン戦没者墓地と星条旗がはためく。今の平和な時代を彼等、あの戦争に参加した世代に感謝し、今以降の平和を彼等に誓う。それこそ、平和な今を生きる我々の健全な姿なのだ。このアーリントン墓地や星条旗は我が国でいえば靖国神社、日の丸である。彼等の世代に敬意を表する為にも日の丸・君が代は無くせない。又、自国の利益の為に侵略行為をするというのは、あの頃の歴史的段階では先進国の間では許されていた事であり、それが世界の価値観(帝國主義)であった。その意味ではあの戦争は民族の誇りだったのである。したがって、「日の丸・君が代」の下で行なわれた野蛮な行為は今後の日本に活かすべき冷静な分析の対象にはなる。が、それをもって反対するということは歴史に対する冒涜に他ならない。イギリスはインド、フランスはインドシナ、オランダはインドネシア、アメリカはベトナムを侵略したが、どの国も国旗をしまいはしない。歴史から学ぶという事は歴史上の栄光も悲惨も全部引き受けることである。どの民族にも様々な影がある。「君が代・日の丸」に数々の失敗があろうと、そこから今後は多くの事を学ぶべきであり、その為にも堂々と掲げるべきである。

<教育的観点から>
学校での教育とは国語・数学ばかりではない。子供達には道徳、公共心も教えなくてはならない。プライベートな自由主義ばかりではなく、公共の為にマナーを守るなど教えなければいけない道徳は必ずある。道徳心や公共心を育成し、子供達に自分が社会のメンバーであることを自覚させる事も教育の大事な役目である。その為に国歌や国旗が必要なのだ。国歌・国旗というのはパブリック(公共)なものであり、パブリック(公共)とプライベート(自己)といった観念を育てるのに無くてはならないものであろう。公共といった観念があるからその場でのマナーといったものが理解できるのだ(多少話が、ずれるが戦後の過度の個人的自由主義教育の歪が昨今の教育現場での問題を生み出している土壌となっているのでは?)。公共という観念を理解させ、道徳心を育てる為に国歌・国旗は十分に役立つはずである。また、自分達が社会のメンバーだということ、つまりこの国は我らの国、我らが運営すべき国だという事も自覚させなければならない。こういった自覚が少ないから投票率が少ないのだ(もちろん投票率が少ないのは他にも原因があるが)。自分達の共同体(国家)に対して愛着を持ち、共同体を運営していく事を教えるのは教育として当然。(文部省学習指導要領「〜我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て〜」)だから本来教育の場で国歌・国旗は当然なのだ。教育の場で国歌・国旗があるとすぐ民族主義者、ファシストになるのであろうか?そういった危惧を抱くのは愚かな事この上ない。国家や民族に対して、愛着を抱く、愛国心を持つというのはこの国の政治を無条件に支持することでは決してない。ましてや他の民族を攻撃することでは決してない。自分達の国家、民族に対して愛着があるからこそ、この国が間違った方向に行こうとした場合にはそれを止める事ができるのだし、恥ずべき行動をしないように運営していけるのである。海外への不法投棄は国の恥、ワシントン条約違反は国の恥、などなどそういった事を考え、この国が間違った方向へ進まないよう行動できる人間を育てるのは教育の役割であり、その為には愛国心を持たせる事が必要だ。愛国心があるからこそ自国の恥を正せるのであり、正しい方向へと導いていける、こういった健康なナショナリズムがあるからこそ、国が成り立ち得るのである。逆に自分達の民族に誇りを持てないようでは国家は必ず崩壊する。この国の構成員は国民である自分達、そして国を導くのは他でもない自分達国民だという事を教える為にも「日の丸・君が代」は教育の場にはなくてはならない。

教師の方々に対して思う事があるのだが、プライベートな好みで生徒の前で国歌・国旗を批判するのは教師としてあるまじき行為ではないのか? 教師とは個々の価値観を生徒に植え付けてはいけない。国が決めた教育方針にしたがって教育するのが教師の仕事である。自分の意見を教えたければそれは個人で私塾を開いて、そこで教えるべきである。教師達の日の丸・君が代に対する反対運動は教師として許されざる行為であると思われる。又、戦後日本の歴史教育は、アメリカ占領下におけるアメリカの国家利益を代弁する「東京裁判史観」と、1930年代のソ連の国家利益に起源をもつ「コミンテルン史観」が「日本国家の否定」という共通項を媒介にして合体し、それが歴史教育の骨格を形成したものである。先の大戦は日本だけが悪かったという歴史観である。それに基づいた教育の延長に教育の現場における国歌・国旗否定といった行動があるように思える。が、しかしそれは明かに間違ったことである。それは外国の国家利益に起源を持つ自国の歴史の見方であるからである。自国の歴史は自分達の頭で考えなくてはならない。もちろん先の大戦で日本が少しも悪くなかったというような「大東亜戦争全面肯定史観」なども許されざる事である。国家の歴史を冷静に見つめ、光と影をともに教える歴史教育をして頂きたい。

(2000/04/01)


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