第弐窓:日本国憲法
今年2月に国会で憲法調査会の議論が始まり、憲法改正論で世の中が揺れている。さて、改正についてであるが結論から言わせて頂ければやはり改正すべきであろう。制定から50年、一度も改正しなかった日本は世界的に見て異常であると言わざるを得ない。世界の主要国の憲法を見るとほとんどの国で改正されている。ドイツの憲法はドイツ共和国基本法(ボン基本法)である。西ドイツが占領下にあった1949年に制定されたため、独立主権国家の最高法規を指す「憲法」ではなく暫定的性格を持つ「基本法」という名称になっている。再軍備に関する規定(54年・56年)、緊急事態法に関する規定(68年)など制定以来46回もの改正が行なわれている。現在のフランス共和国憲法(第五共和国憲法)は58年に制定され、戦後2番目の憲法にあたる。大統領の直接選挙制の採用(62年)、国民投票の範囲の拡大(95年)など制定以来12回改正が行なわれている。イタリア共和国憲法は47年の制定以来8回改正されている。イギリスの場合は成文憲法典はなく制定法、憲法的慣習、判例法が憲法の役割を果たしている。不文憲法の国であるイギリスには憲法改正という観念自体、存在しないのであろうが制定法の制定や改正、判例法の増補により現実の変化に対応できる仕組みになっている。アメリカ合衆国憲法は1787年に成立した世界で最も古い成文憲法である。改正に関する規定が厳しく世界で一番改正が困難な憲法と言われているが、それでも制定以来18回(戦後6回)改正している。社会主義国の憲法は国の体制が異なるので同じには語れない部分もあるのだが、中華人民共和国憲法もソビエト社会主義共和国憲法も改正された経験がある。
(繰り返しになるが)このように見てくると、日本国憲法が1946年の成立以来、50年以上も一言一句変わる事なく現在に至っているのはきわめて異常な事だとわかる。では何故、憲法は改正されなくてはならないのだろうか?それは憲法も含めた全ての法が時代の所産だからである。憲法はそれが作られた当時の政治・経済・社会を反映している。もちろん将来の変動を見越して作られているとはいえ、限界がある。予想をはるかに越えて現実が変化していけば、憲法の規定と現実の政治的・経済的・社会的状況との間にギャップが生じるのは当然である。こうしたギャップに対して時代の変化に適合した内容に憲法を変えていく事が必要とされる。それが憲法改正である。しばしば憲法改正と護憲は対立概念のように捉えられるが、現にある憲法をひたすら守る事が護憲ではない。護憲とは立憲主義を堅持する事であり、改憲論を封殺する事ではない。必要とあらば現実に合った内容に改めて、その憲法を守っていく事こそ護憲である。教条主義的、観念的な護憲論はむしろ憲法の形骸化に手を貸す事になる。憲法が現実に適合せず、しかも改憲が不可能ならば、結局憲法を無視するしか方法がなくなってしまうからだ。言うまでもなく、憲法成立当初と現在では日本の状況は大幅に変わっている。日本は独立し国連に加盟し、経済大国となり、社会も戦後の混乱期をとっくに脱した。そして世界情勢も激変した。現在の世界情勢に適合した憲法の改正はもはや必要不可欠であろう。
さて、では何処を改正するべきか?これに関しては実はほとんどの個所で改正の必要性が叫ばれている。やはり制定から時間が経ち過ぎているのである。しかしここで提言したい改正個所はやはり9条である。この問題こそ我々国民のいちばんの関心事だと思うからである。
日本国憲法第九条
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。9条1項の戦争放棄、2項の戦力・交戦権の放棄である。自衛隊は誰がどう考えても戦力であろう。政府の解釈では9条では必要最低限の戦力の保持は禁止されていないとの解釈であるが、9条の条文を常識的な日本語の言語能力で解釈すればいかなる戦力も保持し得ないと解釈するのが普通だろう。逆に保持が可能と解釈する方が不可能、もし本気でそう読める人がいたら日本語の勉強を小学校から学習し直す事をお薦めする。またこの条項の為に集団的自衛権に関しても政府は非常に難解(理解不可能)な解釈をしている。政府解釈によると集団的自衛権は主権国家として当然に保持しているのだが行使は禁止されているとの事。つまりお金を持つのはいいけど使うのはダメといった理論。行使が禁止されているものがはたして権利といえるかはなはだ疑問である。常識的な言葉の感覚で考えれば、大いなる矛盾であり、意味をなさない解釈がまかり通っているのが現状の日本国憲法なのである。自国民であっても理解に苦しむような憲法では外国からは全く理解できなくて当然。侮蔑の対象となりかねないし信用もされるわけがない。国際的には自衛隊は立派な軍隊である。しかも通常兵力による侵略に対する専守防衛だけで考えれば世界最高水準である。そのような戦力を持ちながら憲法に堂々と「戦力不保持」を掲げていれば誰からも信用されなくなるのは当然である。日本の憲法を取り巻く現状はなし崩し的な法解釈により憲法をないがしろにしている。また政府の憲法なし崩し的解釈に対して法の番人である裁判所が歯止めをかけてくれればまだしも救いがあるのだが、肝心な問題になると統治行為理論などで憲法判断を避けて逃げ回るのが日本の最高裁判所。日本国憲法を取り巻く現状は最悪である。憲法の内容が遵守されていない、憲法が形骸化している状況こそ最悪であり、その内容が遵守不可能なのであれば憲法を改正をせざるを得ない。
では、当然の如く出てくる理論として9条を改正するのではなく9条を遵守すればよい。つまり自衛隊を保持しなければよいとの理論であろうが、軍隊を保持する事なく自国の安全を守る事が可能であるのかはなはだ疑問である。それはやはり安全保障政策上不可能であろう。それに軍隊とは市民社会に必要不可欠な存在である。
およそ人間社会にはもめごと(紛争)がつきものである。それをいつでもうまく話し合いで解決できればそれに越した事はない。だが村人全員が顔見知りであるような小さな社会であればいざしらず、見も知らぬ人々が協力しなければならない大規模な社会ではそれは無理だ。そこで紛争を解決する為に法(ルール)や暴力(物理的実力)が必要なのである。人々の間の紛争は法に照らして解決を目指し、必要とあれば暴力を行使する。(その行使は100%法に基づかなくてはならない)。そして国家が保持する暴力には2つある。一つは国家が市民社会内部の秩序を守る為のもの。法律を破って、他の市民の権利を侵害する市民がいた場合、その市民を逮捕・拘留して取り調べる。市民の安全を守る為、必要最小限度の暴力を行使する。こうした機能を果たすのが警察である。もう一つは国家が外部の勢力に対して市民社会を守る為のものであり、この機能を果たすのが軍隊である。警察と軍隊。市民社会の秩序と安全を守りたければどうしてもこの2つが必要になる。国家は自分達の責任で社会を運営する為の機関。その責任を果たす為には警察と軍隊がなければダメなのである。経済的にも国際間で多様な結びつきがあり、日本のような大きな経済力のある国に何か大きな紛争が起きればその影響は国際的に波及する。だから自分達の国の安全が揺るがないようにする為に、日本が自衛の為に戦力を保持するのは国際社会の現実からすれば「義務」みたいなものだ。ただ、戦後間もない頃は敗戦国である日本にそのような自衛の力があるはずもなかったのでアメリカが守ってくれていたのだ。もちろん日本を防衛する事がアメリカの世界戦略に有意義だから守ってくれていたのだが。その為に日本は戦後、軍事に力を注ぐ必要もなくその持てる力を全て経済発展に注ぎ込んだ結果、戦後、世界史上類を見ない奇蹟の発展を遂げたのだ。戦後の発展は憲法の9条のお蔭でも何でもない。アメリカの軍事力の下に守られていたからこそ可能であったのだ。「軍事に優越的な価値を認めない」という戦後日本の枠組みは日米安保、アメリカの傘のおかげでそのような事が可能であった、逆を言えば日本国憲法の平和条項も大国アメリカの軍事的圧力の存在感抜きでは存在しえなかったのだ。
現状が軍事力を抜きにしては秩序の維持ができない世界情勢である以上、軍隊は保持するべきである。人類がひとつの価値を信じ、ただひとつの市民社会にまとまって暮らせる日が来たのであれば軍隊の必要性はなくなる(その場合は世界警察といった形になるであろう)が、その日が来るまでは軍隊はなくせないのである。日本国憲法第9条は人類の到達すべき最高の目標であろうが、世界の現状として未だその存在は早過ぎるのであり、実践が出来ない段階では憲法として掲げるのはあまりに無責任な理想主義と言わざるを得ない。よって9条は現実に適した何らかの形に改正するべきである。
(2000/05/15)