第参窓:愛国心

〜愛国心なくしては必ず国家は崩壊する〜
「愛国心」この言葉についてアレルギーのある人は多々いるだろう。が、しかし、愛国心はあってしかるべきものである。愛国心という言葉を使うと戦前の軍国主義をすぐ連想する病的にまで短絡的な思考をする人間もいるがここで言いたい愛国心とは決して戦前の軍国主義のような愛国心ではなく日本の国土に対する愛情と国家に対する誇りと国家を守る気概を持つ、そういったごく普通の愛国心である。愛国心の名のもと数々の不幸な歴史があった事は当然承知しているし愛国心という言葉に他の民族への不遜、自国民への過度な人権制限などの危険が内在する可能性がある事も十分に承知している。が、しかし愛国心といったものを持たない国民で構成された国家は必ず崩壊する。国家の事を考えず、自由を履き違え我侭としか言い様のない個人主義に走れば国家が崩壊するのは自明の理だ。腐敗しきった政治家・官僚達を見ればそれも簡単にわかる事であろう(もちろん全ての政治家・官僚が腐敗しているとは言わない。真剣に国家を憂い、国家の為に職務を遂行している人達も多々いる)。彼等は日本国の運営を託された職業の人々である。彼等が愛国心を持って職務を遂行していれば汚職などの政治腐敗なんぞ起る筈がないのだ。が、しかし彼等は国益よりも政治家自身の私益を優先する。屈辱的とも言える外交を繰り返す。彼等が愛国心がないが故の結末に他ならない。屈辱的外交という言葉には誤解される恐れもあるのだが、中国・北朝鮮・韓国との外交には真の独立国のあるべき外交とは言えないような外交もあるだろう。中国へは大量の円借款・ODAの援助をしているが、その金が彼等の国の核開発、軍備拡張へと使われているし、また中国はその金を自国の名義で他の国に援助もしている。日本は国連に対して中国の数十倍の国連分担金を支払っているが、かの国は日本の国連常任理事国入りを反対し続けている。北朝鮮に至っては拉致問題・テポドン発射などの問題があるにも関わらず国交正常化、援助という外交姿勢を持とうとしている。事前通知もなしに他国の国家領域にミサイル発射などの如き行動は宣戦布告とも同一視できるほどの暴挙だ。日本国民が大いなる危険にさらされたというのにとるべき対応もとらない。韓国に至っては度重なる謝罪外交。こういった外交は真の独立国家のとるべき外交ではない。他国に隷属しているような状態に限り無く近い。といっても政治家ばかりを責められない。彼等を選んでいるのは我々国民なのだからだ。評論家の方々はよく「庶民の生活に身近な事を」と言うがそういった近視眼的な発想をするから地元への利益誘導に長けた政治家ばかりが選出されるのだ。国会議員を選ぶという事は国家の命運を託すという事だ(国家に対して愛情を感じていない人間に、国を良くしようと思えるはずがない。だから政治家には「私は愛国者だ」と堂々と言える人間以外絶対になっては欲しくない)。この辺りの国家に対する意識が少ないから日本という国がなかなかよくならないのだ。国家というスケールで物事を考えず、個人の利益で考える。全ては日本を良くしたい、誇りを持てる国にしたいといった愛国心の欠如による弊害だ。だからこそ我々一般国民は愛国心を持たなければならない。

〜人は国家から様々な恩恵を受けている〜
人は1人では生きていけない存在であり、人と関わりを持ちながら生きている。人は助けたり助けてもらったり、必要としたり必要とされながら生きている。それぞれの所属する組織に自分がどれだけ必要とされているか、どれだけ恩恵を被っているのかを意識すべきである。これはまずは家族から、教育を受けた学校へ、地域社会へ、そして国家へと枠を広げて当てはまる事である(しかし、一部の人達は地域社会までは納得するのだがそれが国家になると途端に否定する。国家をとばして、世界へ、環境へと向う)。何かに所属するという自覚があって、そこから多大な恩恵を受けているという感謝の気持ちがあれば、その組織に対して愛情を抱くのは当然の事なのだ。恩恵を受けている対象に対して愛情は抱くというのは誰しもが納得する常識であろう。だからそういう意味で言えば国を愛する心だって常識なのだ、常識以外の何物でもない。国民は国家の保護の下で生きているのだ(身の安全1つにしたって法治国家という国家制度による恩恵である)。自分を保護してくれるものを愛するのは常識であろう。常識とは理屈を抜きにして共通の認識として人々の間で通用するものであり、また常識とは長年の経験・歴史によって1つの共同体が生み出した価値観でもある。言うなれば1つの共同体の慣習法・ルールであり、道徳・モラルであるのだ。ただその常識は共同体によって違う事もあり、日本では常識でも他の国では常識ではなかったりする事例は多々ある。が、恩恵を受けているものに対して感謝の念を抱き愛情を持つというのは全人類共通の常識であろう。ようは全人類共通の、世界という1つの共同体の常識なのである。即ちそれは人間としての慣習法でもあるし道徳でもあるのだ。

〜国家なくして人は生きてはいけない〜
「地球市民」などとおめでたい言葉を使う人達はさすがにもう皆無であろうが、思想としてはまだ残っているのだろう。これらの思想を持っている人達は世界市民と名のって海外に1度行ってみるといい。誰も受け入れてくれないから。日本国のパスポートがあってこそ身元が保証され海外に自由に渡航できるのである。国際社会では国家があって初めて個人として生きる事ができる。国際社会では国籍を持って初めて認めてもらえるのだ。また海外で何かしらの事故に遭えば日本大使館に行くだろう。そこでは日本国に保護してもらえる。つまり個人は何処かの国に所属していなくては存在しえないものであるし、またその国からは保護をされているのだ。もしほんとうに日本という国が嫌いで、否定するのであれば、自分の国に保護される事も拒否するべきであろう。保護は受けながら悪態はつく、大いなる甘えで無責任な発言である。更に言えば自衛隊について存在を否定するのであれば自衛隊の助けは絶対受けないで頂きたい。某政党党員は震災などの被害にあった場合でも、海外からの武力に対しても自衛隊の助けを受けず自力で生き延びて頂きたい。非難はするが保護は受ける、親に保護され養ってもらいながら親に対して平気で悪態をつくのと同じ非常に無責任で勝手極まりない事だ。

〜ナショナルアイデンティティーと日の丸・君が代〜
愛国心を持つにはナショナルアイデンティティーは欠かせない。ナショナルアイデンティティーとは、つまり「自分は何人なのだ」という国民としてのアイデンティティーであり、ヨーロッパでは19世紀に戦争が国家全体戦争になるにつれて(ナポレオン戦争を契機として)それぞれの国家に根付いてきたものである。我が国日本では江戸時代には鎖国政策もありナショナルアイデンティティーなるものはあまり根付いておらず明治維新以降(明治維新は1868年)近代国家として形成されていく上で根付いてきたものである。誤解のないよう言っておくが、もちろん明治維新以前にも日本文化というもは当然存在し、世界中の他の民族と同じように独自の文化を営んできた。その日本文化をナショナルアイデンティティーとして形成しだしたのが明治維新以降という事だ。そして各国が近代国家として形成される過程においてナショナルアイデンティティーの形成と共に国歌・国旗を1つの国家が持たなければならないという慣例ができたのだ。そして日本のナショナルアイデンティティーは日本文化統合の象徴として日の丸・君が代の下で育まれてきた。だから日の丸君が代は近代日本、日本という国の国家としてのアイデンティティーを形成していく過程の核であったし、もう既に十分に日本国家としてのアイデンティティーの核である。だからこの国を近代国家として作り出してきた先人達の努力の象徴でもあり、また現代我々のアイデンティティーの拠り所でもある国旗とは敬意を持って扱うものであり、国歌とは敬意を持って歌うべきである。それは世界的常識でも歴史的常識でもある。先にも述べたように常識とは長年の経験・歴史によって1つの共同体が生み出した価値観でもある。言うなれば1つの共同体の慣習法・ルールであり、道徳・モラルである。だから教育の場での国旗掲揚、国歌斉唱など国民として当たり前に教えなくてはならない道徳なのだ。国旗・国歌に対しての蔑みは国民としての道徳・倫理観を欠如した行為に他ならない。 しかし、日本の現状はこの点が甚だ異常である。国歌国旗法案が話題になっていた頃、例えば国立市の小学生が、屋上に日の丸を掲げようとした校長先生をつるし上げ、土下座して謝れと言ったという事件があった。常識的にはこれが小学生が校長に対してとる態度なのかという事を問題視するべきであった。この小学生はどう考えても普通ではない。が、子供達は得意満面で国旗を揚げない自由の権利を高らかに主張したという。子供の頃から日の丸に対しての反感をこれだけ植え付けられて育ってしまったという悲劇の元凶は親であり、マスコミであり、某教師組合だろう。しかも親やマスコミは子供の非を責めるどころかまったく逆の反応を示した。「校長の行為でどれだけ子供の心が傷ついたことか・・・」などと。他にも生徒会と高校が対立して在校生が入学式参加を拒否したという高校もある。この生徒会に対しても子供の自主的判断でやったことだからといってその行為を認める発言をしている。本来であれば教育の場で国歌や国旗に対して敬意を表する道徳・倫理を教えるはずなのに(もちろんそれだけではなく社会生活上の一般的な道徳・倫理も教えなくてはならないが)、これでは国歌・国旗に対する道徳・倫理も育つはずもないし、校長を土下座させるという行為の非も教えられないのだから、社会生活上の一般的な道徳・倫理も育ちはしないだろう。日本の教育現場でのこういった異常な状況を一刻も早く打破し国歌・国旗に対して普通の態度をとれる教育をしなくてはならない。(本来であれば愛国心などというものは普通の教育をしていけば自然と育つものなのだ。人は皆自分の所属共同体に愛着を憶えるのが極々自然の事なのだ)。

〜どの民族にも光と影がある〜
反対意見の方々には再三言うがどの民族のどの国旗の下にも光と影があるのだ。一部の国の国旗の下には光(民族独立の光)しかない国もあるだろう。しかしそれらの国は第二次大戦後できた国旗であり、戦前は自国の力が弱くて影の部分を作る事ができなかった。少々危険な言い方である事は十分承知の上で敢えて言えば国旗の下に影の歴史がある国というのはそれだけ早くから一人前の国家として成り立っていた証でもあり民族としては誇りの部分でもあるのだ。もちろん侵略された国にとっては不愉快この上無い事ではあるのだが。帝國主義の時代は自国の利益の為に他国を侵略する事が許されていた時代、まだ世界の倫理が未熟な時代(今でも成熟しているとは言い難いが)であったが、その時代に既に一人前の国(当時の言葉としては一等国)として存在していたという誇りでもある。それ以前、国旗の下ではない他民族への侵略であれば、それこそ、他民族侵略の歴史経験がない民族は存在しない。どの国の民族も同じような歴史を持っているのだが、我が国には自国の歴史や民族に対する自虐的な捉え方において異常な国民が多々存在する。世界でもこのような国は皆無だろう。世界に類例のないようなこの自虐的な思考は間違えなく不健全であるが、このような自虐的思想が正義であり良心であると考える輩が多いのも事実である。自虐思想の持ち主の輩は誠に偏狭で奇妙、不寛容な空気が張り詰めている。バランスを欠いた非合理な精神状態。一方の肯定は他方の完全全面否定。これなど彼等がもっとも忌み嫌う戦前の国家主義以外の思想は認めないという思想弾圧と何も変わりがない。

〜国家とは即ち国民自身の事だ〜
愛国心とは国家の政策への盲目的肯定では決してない。だから当然愛国心故の国家政策に対する苦言や批判はどんどんするべきだ。そうやって一歩一歩誇りを持てる国家へとなっていく。また国家とはその国家を構成している国民1人1人の集合体である。即ち国家とは我々国民自身のことであり、国家に対する愛情とは国民1人1人に対する愛情と何ら変わりがない。民主主義国家の愛国心なのだから絶対君主に対する忠誠とは違うのだ。ましてや民主主義国家というのは国民自身が行政を担い、自国を運営していく政治制度である。そのような政治制度にこそ自分達が運営していく共同体に対しての愛情、つまり愛国心が必要不可欠なのだ。真の愛国心を持てる国家は国家として一段と成熟するはずである。21世紀、新たな世紀を生きる日本人として、日本人としての誇りをアイデンティティーを愛国心を持って生きていくべし。

(2001/1/16)


この考えに対して物申す!!