第四窓:歴史認識
日本の明治維新後の歩みは帝國主義に則った侵略の歩みのように認識されているがそれは違う。そもそも侵略か自衛かは交戦国の立場の違いを反映しているだけで、これに判然と線引きするのは歴史的にも実証的にも不可能な問題に属する場合が多い。それを戦後敗戦国として戦勝国の一方的な歴史認識を押しつけられ、それが教育の現場でも今だに続いている。そこで我が国の立場で歴史を振り返ってみたい。
浦賀にペリーが来航して以来我が国は鎖国政策をやめ開国した。開国した日本が直面させられた世界は西欧の白人諸国が競って植民地争奪戦を繰り広げている弱肉強食の世界であった。その時代日本は列強と肩を並べる近代国家に生まれ変わらなければ植民地とならざるを得ない時代であり日本は帝國主義の時代の中、近代化への道へ懸命に走って行ったのである。近代化に向けて走り始めた日本にとって当面の最大の課題は何と言っても自国の安全を確保する事である。その為には軍備を増強し強兵を目指す事であった。また自国の安全保障の為には朝鮮半島が中立化していなくてはならない。日本以外の大国が朝鮮半島を支配化に置こうとすれば帝國主義のこの時代そこからほとんど隣接しているに等しく島国で後背地のない日本の安全保障上非常に憂慮する事態である。古代においては朝鮮半島は大陸の文化を受容する為の通路であったのだが帝國主義のこの時代においてはまさしく日本に付きつけられた銃剣そのものであった。
そこで朝鮮にも他国の支配下になる前に近代化を遂げ西欧諸国の侵略をはね返す独立国になってもらう必要がある。日本が開国した後も朝鮮では鎖国政策が続けられていた。しかし日本が開国を求めると逆に十五世紀から続いていた朝鮮通信使外交(李氏朝鮮王国が日本に対して派遣した使節による外交)に基づく通商まで拒否したのだ。そこで日本側はやむなく釜山で密かな取引、いわば密貿易を行なっていたのだが、1873年(明治六年)朝鮮政府は密貿易取り締まりの強化を打ち出し、その文中に「近頃日本人の所為を見るに無法の国というべし」という言葉があり、また朝鮮の東莱府(とうらいふ)使が日本人を夷狄(「いてき」東方の野蛮人)と罵った。朝鮮は伝統的、歴史的に中国と宗族関係にあり、定期的に中国に貢物を送り献納するという朝貢を行ってきた。中国に貢物を捧げ自国は(実質的には中国の属国となり)安全を保障してもらう、いわゆる中華思想に基づく冊封体制・華夷秩序である。李朝末期でも「衛正斥邪」といった排斥運動が起こり、それは「中華を正として守り、西洋を邪として排斥する」といったスローガンであった。日本の明治維新は評価されず東アジアの秩序体制である冊封体制・華夷秩序にそむく蛮行とまで言われていたのである。朝鮮の両班達は日本の欧化を「禽獣の衣服をまとい、禽獣の声を真似する」とまで言い「衛正斥邪」は更にエスカレートし「反倭攘夷」まで唱えられた。
その後朝鮮国内の内乱である壬午事変、東学党の乱を通じて最終的には権力の座にあった国王高宗の父・大院君から朝鮮国内に駐留している清国軍隊の駆逐を依頼され日本は日清戦争へと突入した。そして日清戦争で日本は勝利を収め講和条約である下関条約では日本は朝鮮の自立独立を清国に対して承認させた。ここでわざわざ朝鮮の自立を承認するという条項がある事を見ても朝鮮が実質的には清国の属国という認識が清国にもあったという事である。そして清国からは遼東半島、澎湖島、台湾を割譲させ、軍事賠償金として二億両を払わせた。が、その後遼東半島はロシア・フランス・ドイツの三国干渉にあい、清国に返還させられる。「遼東半島の日本所有は清国を危うくし朝鮮の独立を有名無実にするものである」というのがその理由であったが「平和・独立」という美しい言葉で日本を抑えつけたロシア・フランス・ドイツ、そしてイギリスが日本返還の後相次いで租借地という名目で遼東半島を我物とした。強者が弱者を駆逐する、食うか食われるか。これが帝國主義時代の常識だったのである。日本が強引に朝鮮を操作させ清国との戦争へと突き進んで行ったのはこうした時代背景があった。宗主国の清国は疲弊しきっており清国の実質的属国であった朝鮮を自立させないと列強(特にロシア)の支配下に置かれる危険性が多分にあり、朝鮮が列強の支配下に置かれると日本の安全政策上大変に危険な状態となる。言わば日本の側から言えば明らかに自衛の行動であった。こういった理屈は今の時代では通用しないだろう。が、しかしそれは現在の世界の秩序体制だから言える事であり、帝國主義のこの時代にはこうでもしないと自国の安全を保障できない時代であった。また日本は不平等条約を押し付けられすれすれのところで植民地を免れたまだまだ極東の小国でもある。いつ列強の植民地になってしまうかわからない現実的な恐怖もあったのだ。このような対策を取らねば自国の安全が保障できないのも当然であろう。
日清戦争で負けた清国は列強の格好の餌食となり租借という名目で国土は散々に奪われ始めた。こうした事態の中で清国では「扶清滅洋(清を助け洋を滅ぼす)」のスローガンのもとに義和団の蜂起が起こり、外国人への排斥闘争を開始する。そして当時清国の権力の座にあった西太后はこの乱を利用して列強へ宣戦布告をした。これに対して列強はただちに総兵力3万6000人にも及ぶ兵を派遣し、清国を打ち破った。これが北清事変である。なお、列強の中でも最も多く兵を派遣したのは日本で兵力2万2000人に上ったが、これはイギリスを始めとする列強がロシアの清国に対する影響力が強まる事を恐れて日本にしきりに大量派兵を求めた結果によるものだった。げんにロシアはすぐさま満州に1万5000人もの兵を送りほとんど満州を独占する形となった。そして北清事変が終了してもロシアだけは軍隊を撤退させる事なく満州に居座り今度は朝鮮への進出の意志を露骨に表してきた。朝鮮は日清戦争後日本指導の下、近代化を推し進めていたが古い冊封体制から抜け出せず近代化する事自体が蛮行だと考える朝鮮においては近代化への抵抗が激しく近代化も国としての自立も成し得なかった。そこにロシアが進出を企んでいたのである。日本の指導者達はロシアの軍隊駐留という露骨な進出に危惧し、再三ロシアに対して清国からの撤退要請を打診したが全部無視された。そこで当時駐露大使だった小村寿太郎は蔵相ウィッテを訪ね「日本は満州に出る意志は毛頭ない。だからロシアも朝鮮へは進出しないで頂きたい」といわゆる満韓交換論を提示したのだがウィッテは「ロシアが満州をどうするかはロシアの意志しだいであるが、朝鮮は日本の好きにはさせない」と完全に拒否をされる。また小村が外相に就任した直後にもロシアのラムスドルフ外相はクロパトキン陸相宛の手紙で「我々が決して日本に朝鮮を与えないことは確実だという事を日本に理解させるべき」だと書き記している。もはやロシアの朝鮮進出は明らかとなり、日本はロシアとの開戦を決意する。日露戦争は過酷を極め何とか辛勝となる。日露戦争は日本の側から言えば祖国防衛の為の国民戦争である。ロシアにとっては日露戦争の勝敗がロシアという国家そのものの存在を危うくするような事態は起こり得ないが日本にとってはまさしく皇国の興廃この一戦に有りだったのだ。
日露戦争に勝利しロシアの韓国への影響力を払拭した日本は1905年第二次日韓協約により韓国を保護国とした。そしてその後1910年の日韓併合まで進んで行くのである。日本が韓国を保護国とした理由は先程述べた通り日本の安全保障政策上の必要によるものである。韓国が近代化、自立していかないといつまた他国の支配化になるかわからずそうなると日本の安全が危うくなるからである。
保護国として韓国には統監府がおかれ初代統監となったのは伊藤博文である。伊藤は韓国を植民地化する事には反対で行く行くは韓国を独立させたいと考えていた。彼が韓国の自立をこの先考えていたという事は様々な資料により歴史家の中では明らかになっている事実である。彼は韓国皇帝に謁見した時も韓国の独立を保障している。そして彼は統監に赴任するやいわゆる「文化政策」なる一連の政策を打ち出した。第一に、韓国が富強を出切る限り早く実現できるように1000万円(現在になおすと約332億円)の企業資金を借款として韓国に貸し付けた。その次にしたのが教育の振興であった。学校の新築や改造整備などよく教育の普及と、教育内容の充実を図った。さらに病院なども建設した。そして「文化政策」は伊藤統監の後半期には「自治育成政策」となってより具体化されていった。「自治育成政策」は司法制度の整備、銀行設置、教育振興、そして殖産興行の四つの要素から成り立っていた。たとえば、司法制度の整備については1907年(明治四十年)裁判所構成法、裁判所構成施行法、裁判所設置法を公布し、翌1908年には大審院、控訴院、地方裁判所などを開庁した。彼はこういった政策を次々と打つことで韓国の保護国化を日本の利益の為にではなく韓国の育成の為にやっているのだと韓国人がその事を理解すると考えていたのだろう。
しかし、反日・抗日運動は収まるどころかますます激化した。実はこの反日・抗日運動は韓国皇帝の資金により支えられていた。皇帝は実は日露戦争の頃から日本に全面協力する格好を示しながら、ロシアをはじめ列強各国に密使を派遣して日本に対する干渉を要請していた。この事実は「大韓毎日申報」の記事によって報じられた。伊藤が命じた調査では皇帝から頼まれてアメリカ大統領ルーズベルトに親書を届けた人間まで判明した。ホーマー=ハルバートというアメリカ人だった。だが皇帝は伊藤には事実無根だと弁解し伊藤もそれ以上追及はしなかった。当時日本国内では激化する反日抗日に対して日韓併合の動きが強まっていた。これ以上調査して事件が拡大すると日韓併合が一挙に固まってしまうのを韓国独立を考えていた伊藤は恐れたのだろう。が、彼の判断は甘かった。1907年のオランダハーグでの万国平和会議に皇帝が密使を派遣していた事が判明したのである。この会議にて日韓保護条約の無効を列強に承認してもらおうと考えていたのだが列強は相手にする国は一国もなかった。日本の韓国保護国化は国際法にも則り正当なものであると世界に承認されていたのであり、極東における秩序維持の為にも日本が韓国を保護国化する事が有効だと認識していたのだ。ハーグ密使事件はただちに伊藤の知るところとなり独自に調査もさせた。故に彼は韓国皇帝の退位を決意せざるを得なくなった。しかし尚も伊藤は日本国内に渦巻いている韓国併合論に対しては強硬に反対を続けたが1909年ハルビン駅内で安重根に狙撃され死亡した。そして翌1910年韓国併合条約が調印される。今日韓国では日韓併合を推し進めた人物として憎悪の念を抱かれている伊藤博文の実像はこうであり彼が亡くなる事によって韓国併合は実現化した。
朝鮮服を着た伊藤博文(中央)
ちなみにアメリカ大統領ウィルソンによって帝國主義、植民地政策が明確に否定されそれが世界の世論となるのは第一次大戦後の1917年で日韓併合の7年後の事であり、日韓併合に関しては1905年の桂・タフト条約で日本が韓国をアメリカがフィリピンを統治する事を相互に承認している。
これが史実である。日本の日清・日露戦争、韓国併合はどれも日本の安全保障政策上必要があり行われた事である。これは我々日本側から言わせて頂ければ決して侵略ではない。帝國主義の時代における祖国防衛の為の行動である。しかし先にも述べたが立場の違う国から見ればそれは違った見解にもなるのが当然である。併合された韓国としては自国を失ったのだ。これが侵略でなくて何なのであろう。侵略以外の何物でもない。しかし韓国の立場からすれば侵略でしかない行動もやはり我々の側からすれば防衛行動であった。食うか食われるかの弱肉強食の帝國主義の時代に生き残りを賭けて懸命だった。韓国の保護国化は日本の安全政策上必要の事であったし、それを当時の国際社会は承認していたのだ。韓国国民としては屈辱的な事であったろうが時代と状況がそうさせたのである。敢えていちばんの理由を言えば近代化する事の成し得なかった韓国自身にこそ理由がある。日本も植民地にされるかされないかのギリギリのところを懸命な努力ですり抜けてきたのだ。明治維新を断行し近代国家として生まれ変わり何とか独立を保つ事ができた。それでも不平等条約の撤廃には20年以上もかかっている。欧米列強と肩を並べる為懸命の努力をしたのだ。あの弱肉強食の時代では韓国併合は日本にとっては安全保障政策上必要の措置であり、国を失った責任は近代化成し得なかった韓国(李氏朝鮮)自身にあると言わざるを得ない。史学的に判断すればあの時代に近代化為し得なかった国が自立できたはずがない。日本でなければロシアの植民地になっていただろう。
韓国・台湾の近代化は日本がもたらしたものである。日本は韓国・台湾に対して欧米型の搾取的な植民地政策をしなかった。植民地に対して本土と同じような近代化政策を行なったのである。そして併合の後は植民地ではなく日本国の領土となったのだから当然内地と同じく近代化政策を行なった。これは経済的な観点から算盤勘定すれば明らかに損失であったのだが本土に近いこれらの地域が疲弊しきれば安全保障政策上憂慮すべき事態になるからである(だからもし欧米のように本国からかなり遠い場所に植民地を持てば搾取型の植民地経営をしたかもしれない)。このように言うと歴史を捏造する国粋主義者と思われるかもしれないが歴史的事実として国際的に正しい歴史認識である。アメリカ人はアメリカが日本に民主主義をもたらしてやった、戦後日本の経済発展はアメリカのお蔭によるところが大きいと言って憚らないし、日本人である自分も事実その通りであると思う。明治・大正の民主主義は今から比較すればであるが不完全なものであったしアメリカが持ってこなければ女性の参政権など今のような民主主義は根付かなかっただろう。また戦後の復興もアメリカの多額の資金援助及びに米軍駐留により日本は国防にお金をかける事もなくその力を全て経済復興に傾ける事ができた。アメリカなしでは日本の復興はなかったであろう(もちろん戦後日本国民の懸命の頑張りも当然の如くに復興の原因だが)。アメリカに迎合しているわけではなくそれが正しい歴史認識というものだ。しかし韓国国民は日本の果たした功績については全く評価しない。歴史的な事実を認めようとはせずに日本の植民地支配の罪ばかりを唱える。もちろん日本も日本の国益に叶うので韓国の近代化を推し進めたのだし、どんな理由であろうと併合された事実は韓国国民に屈辱的な思いをさせた事も事実だが、韓国の近代化をもたらしたのは日本である事もまた事実であり、それに日韓併合は当時の国際法に則り国際社会が承認した行為である事もまた事実である。
何度も言うが国によって歴史の認識が違うのは当然である。そしてどの国も自国の歴史観を持っている。ならば日本は日本の立場から歴史を認識しそのように教育をするのが当然なのだ。明治維新以降の日清戦争、日露戦争、韓国併合は帝國主義の時代における祖国防衛の為の行動であり植民地争奪の為の侵略ではないとするのが日本としての歴史認識であり、そのように教育の現場でも教えて頂きたい。
(2001/03/01)