「君の瞳に乾杯」

〜Here is looking at you, kid〜

VOL.5

 

さてページを改めて気の利いたセリフ、名セリフの続き・続き〜

「息子や娘が小さい頃よくゲームをした」
「一本ずつ枝を渡してね、折ってみろと言うんだ」
「むろんすぐ折れる」
「そして今度は束にしてもう一度折ってみろ、と」
「今度は折れない、その束こそが家族だ」

「ストレイト・ストーリー」(2000)でのセリフ。ちょいと長い引用になってしまったがこのセリフ。主人公のアルヴィン・ストレイトが旅の途中に出会った家出少女に対して言うセリフなのだが、似たような話を聞いた事がある方も多いだろう。これって・・・毛利元就の「三本の矢」じゃん!。嫡男の隆元に家督を譲った後、隆元・吉川家の養子になった次男の元春・小早川家の養子になった三男の隆景の3人に対して「一本の矢は折れ易いけれど三本束ねれば折れ難い、力を合わせよ」と説いた有名な話。日本人であればこの話を知っている人は多いだろう。特に戦前は「三矢(さんし)の教え」として小学校教科書にまで載っていたくらいだから、ある程度の年齢の方々ならほとんどの方が御存知でしょう。この映画の監督はデヴィッド・リンチなのだが彼は何処でこのネタを仕入れたのだろう?まさか彼のオリジナルではあるまい。それともアメリカにもこんな似たような話があるのだろうかね?まぁ、良い話なのでね、いろんな所でいろんな方々に使って頂いた方が良いのだが主人公には「日本の武将曰く・・・」などと言ってくれればこちらのボルテージも上がるってなもんでしょう。さて、映画のストーリーは10年前に仲違いして以来、一度も連絡を取り合うことのなかった76歳の兄ライルと73歳の弟アルヴィン・ストレイト。だが兄が病気で倒れたと聞いたとき、弟は兄と和解しようと決意し、弟はトラクターに食料と毛布を積み込み、アイオワ州ローレンスから、兄の暮らすウィスコンシン州マウント・ザイオンまで560キロの旅に出る。車なら1日の距離だが、トラクターの最高時速はわずか8キロ。はるばる6週間の長旅になる。これは1994年に起きた実在の事件を映画化したロードムービー。まぁ、シンプルでほんのり良い感じの映画。

「何かいい物語があって、語る相手がいるかぎり人生捨てたもんじゃない」

「海の上のピアニスト」(1999)でのセリフ。世紀の変わり目の年にあたる1900年。ヨーロッパとアメリカを結ぶ 客船ヴァージニア号のラウンジにあるピアノの上で、黒人機関士が生まれたばかりの赤ん坊を見つける。おそらく三等船室の女性客が船内で産み落とし、一等船室の金持ち客に拾われることを望んで置き去りにしたのだろう。機関士は赤ん坊にナインティーンハンドレット(1900)という名前を付け、我が子同然にかわいがる。船の中だけで成長した彼は、やがてピアノ演奏に並ならぬ天才的ひらめきを見せ始める。その彼が友人であるトランペッターのマックスに向けて言うセリフ。素朴だけれどもちょいと御洒落で実に良いセリフ。さて、この映画はトランペッターのマックスが、移民船で最初にアメリカを発見する男について語り始めるオープニングからファンタジーの色が濃厚。嵐の海でピアノが床を滑りながら音楽を奏でる場面など最高にファンタジック。だが、物語が進むにつれてだんだんとペラペラの寓話みたくなっていくんだよなぁ、勿論ファンタジーだとわかっているし、リアリティは期待していないつもりだけれども、でもちょいと欠如し過ぎ。最後も何故海の上から降りることなく、そこで人生を終えなければいけないのかという説明が不十分。ただひたすら船からタラップを降りて土を踏むことが出来ない理由が、都会の消費者経済を否定されているようなんで文明批判っぽくありそうなスタイルなんだけど、とくにそういう対立する概念があるわけでもなく、何が言いたかったのだかさっぱりわからない。映画の内容としてはイマイチなんだけれど、このセリフはけっこう素敵だよね。あと、やはりモリコーネの音楽は素晴らしい。主人公が窓から少女を眺めつつ、その少女を想いながらピアノを弾くシーンはとても良いし弾いてる曲も良いものなり。

「9歳はもう子供じゃない」

「運動靴と赤い金魚」(1999)でのセリフ。「セントラル・ステーション」「ライフ・イズ・ビューティフル」と並んでこの年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされたイラン映画。主人公は幼い兄妹アリとザーラ。アリは買い物の途中、妹ザーラから預かって修理したばかりの靴をなくしてしまう。ボロボロにすり切れた粗末な靴なのだが、ザーラの靴はそれ1足しかない。新しい靴を買ってもらいたくても、そんな余裕は家にはないのだ。家は貧しくて家賃を何ヶ月も滞納しているし、母親はぎっくり腰になって身動きができない。父親の収入だけでは、なかなか生活の細かな部分にまで手が回らない。そんな家庭で家の手伝いをしなさいという父親がアリに向って言うセリフがこれ。日本もつい何十年か前までは貧しく、子供達も家の手伝いをするのが当然だったのだが(貧しいから家の手伝いをするわけではないが)不景気だの言われてても街にはブランド品が溢れ、年に何万人も海外旅行をするような富める国となった日本人、また物のない時代を知らない世代にはけっこうくるものがある。もちろん貧困は恥ずべき事ではない。富める国・時代に生きている我等こそ今一度噛み締めたいセリフである。さて、映画のストーリーとはあまり関係の無いセリフだが肝心のストーリーはというとけっこう良い。結局アリとザーラは、1足の靴を一緒に使うことにする。午前中に授業があるザーラが朝から靴を履いて出かけ、午後からはアリがそれを履いて学校に出かける(イスラム圏の大概の国では学校は午前クラスと午後クラスがある)。ところが靴の受け渡しがなかなかうまくいかず、アリは連日遅刻スレスレで学校に飛び込むようになる。それで兄妹はもめたりもするがこの2人すごく優しい。ザーラが自分のなくした靴を履いている女の子を見つけて、アリと一緒にその家まで出かける。が、靴を返してもらいに行ったはずなのに、その女の子の父親が目の見えない人で、自分たちと同じぐらい慎ましやかな生活をしていることを察すると、何も言えずにとぼとぼと家に帰ってきてしまう。優しいから、他人の痛みや苦しさがよくわかって、自分たちが我慢しようと思ってしまう。そして賞品の運動靴目当てに、アリがマラソン大会に出場するが、結果は如何に?というけっこう良い映画。それにしても主人公の兄妹2人、ほんと可愛らしいです。アリはお兄さんなのにすぐ泣くし。

「恋愛はもう1人の自分を選ぶ事なんじゃないかと思っています」
「こういう自分になりたいな、こういう自分だったら、なんて恋をしていく」

「ハル」(1995)でのセリフ。パソコン通信を介して男女が出会うといった映画。劇場公開の95年当時は「ネット」ではなく「パソコン通信」。今聞くと何やらちょいとレトロな響きがありますな。「ハル」は主人公(内野聖陽)のハンドルネームで相手の女性(深津絵里)は「ほし」。この2人が映画好きのチャットで出会って最初は恋愛を意識しないまま親しくなって、何度か事件があって互いが必要な存在に変わり、終盤で仲違いの末に最後はハッピーエンディング、という恋愛映画の定石で、映画という創り物ならではの偶然もあったりしてありふれているといえばそうなのだが後味は悪くなくけっこう良い作品。パソコン通信という(当時としては)新しい舞台の上で男女が出会うという斬新な設定もさる事ながら、丁寧に作りこまれていて映画全体の半分近くが文字列だけで進行して行く構成なのだが、それを苦しく感じさせない。上記のセリフも劇中のセリフではなくてメールでパソコン画面上に書かれた文字。御互いの恋愛観をメールにて吐露する場面。実際に会っているのではなくメールでのやりとりなのでゆっくりと主人公2人が惹かれあっていく過程がとても良く、また地方の方々から見る「東京」、主人公が生きている空間としての「東京」がとても綺麗に描かれている映像がちょいと心地良い(この映画の主題歌はTHE BOOMの「TOKYO LOVE」)。ちなみにこの主人公の「ハル」は学生時代にラグビーをやっていたという設定なのだが内野聖陽はすらっとしていてスマートな体格でとてもそうは見えない。ラストは「はじめまして(^_^)」。

「ロレンス! メリークリスマス」

「戦場のメリークリスマス」(1983)でのセリフ。まぁ、ここでこの文字だけ見ると名セリフというわけではないのだが映画の最後に戦犯として処刑を控えたハラ軍曹(ビートたけし)の口から「めりー・くりすます・・・」と出てくるのを聞いた時は涙が溢れ出た。何故だろう?感動ともちょいと違うしただ哀しいわけでもないのだが・・・理屈ではなくぐっとくるものがあのラストにはある。たけしの満面の笑みもまた良い。さて、映画の内容はというと、時は1942年、舞台はジャワ(現インドネシア)の日本軍捕虜収容所。ヨノイ大尉(坂本龍一)ハラ軍曹(ビートたけし)そして捕虜となった英国陸軍少佐ジャック・セリアズ(デビッド・ボウイ)同じく捕虜となった日本語に堪能な英国軍中佐ローレンス(トム・コンティ)の4人の人間模様。そしてヨノイ大尉とジャック少佐、ハラ軍曹とローレンス中佐が惹かれあう。さて、この心惹かれ方だがヨノイとジャックは大島渚監督御得意の同性愛的なニュアンス。 もちろんヘンな描写はないが御互い精神的・性的な感情が混同した惹かれ合い方。しっかし、大島渚って何でまたこうしたエロスの漂う感覚が好きなんだろうね。「コリーダ」はもちろんハードコアだが「御法度」にしろ、そういった感覚には全然ピンと来ない自分としてはイマイチなんだよね、この2人の関係には(妖艶な雰囲気を出す為か、坂本龍一は化粧してるし)。だが、ハラとローレンスの関係にはそういった感覚がない。ハラとローレンスの会話は東と西の精神構造の違いを浮き上がらせる。「死して虜囚の辱めを受けず」と教え込まれてきたハラはローレンスに対して「お前のような(有能な)人間が何故捕虜となるような恥を受け入れる?」と聞き「それは恥ずべきことではない」と言うローレンスの主張は 全く噛み合わない。「恥」「個人」「全体」等々に対する考え方の違い。ハラはローレンスと話す事により自分の価値観を揺さぶられる事に戸惑いをうけ、彼と接する事を虞もする。しかし、処刑が決まった彼の命を救い、その夜泥酔しローレンスに対して自分は「FATHER CHRISTMAS(サンタクロースの事)」だと言う。精神の根幹部分を成す価値観はどの民族・個人にもあってこの価値観の逆転は個人の生き方そのもの、その個人の「生」の意味そのものを揺さぶらせる。ハラの体験した価値観の逆転や戸惑いは戦後そのまま日本人が引きずってきたものだ。己の職務に忠実だったが故に戦後戦犯として処刑されたハラのような人間はたくさんいただろう。最後の台詞「めりー・くりすます・・・」を聞いて涙が溢れ出たのはそういった悲哀を感じたからかもしれない。そうそう、やはり坂本龍一の音楽は素晴らしく、この印象的なスコアなしではこれほど魅力的な作品に仕上がらなかっただろう。

「無駄にするな しっかり生きろ」

「プライベート・ライアン」(1998)でのセリフ。1944年ヨーロッパ西部戦線。3人の兄を全て戦争で失ったライアン二等兵(マッド=デイモン、ちなみに「PRIVATE」とは二等兵) 1人を救出する為にミラー大尉(トム=ハンクス)が7名の部下を従えて作戦を実行するというもの。しかし、8人が命を賭けて二等兵1人を救い出すという作戦もすごいよなぁ。そして上記のセリフはライアンを救い出す作戦の最後に戦死する間際のミラーがライアンに対して言ったもの。この(ライアンを救い出す)作戦で6人が命を落としている。即ちライアンの命は6人の犠牲の上になりたっているのだ。彼等の死を無駄にしてはいけない。しっかり生きろという事。これがそのままスピルバーグがこの映画に込めたメッセージそのものとなっている。つまり今を生きる我等の平和は戦場で散っていった多くの兵士達の犠牲の上に成り立っているのだ。だからこれを忘れず感謝と哀悼の誠を捧げよ、というメッセージなのだ。だから彼はこの作品でアカデミー賞を取った時に会場で「この賞を祖父達に捧げます」と言ったのだ。これは今を生きる我々は決して忘れてはいけない誠である。そしてもう1つ。彼はユダヤ人であり、ユダヤ人解放の為に戦った兵士に対しても感謝しましょう、というメッセージも多分に含まれている(というかこれこそがメインメッセージかも)。でもね、ここで彼がユダヤ人である事がこの映画のネックなんだと思う。もちろん戦争で散っていった兵士達に感謝と哀悼を捧げるのは至極真っ当な事だと思うのだが、ユダヤ人である彼はナチスが憎くて仕方が無いんだろうなぁ。ナチス兵の描き方がちょいと酷いでしょ。「ナチス=完全悪」の描き方には観ていてかなり嫌気がさす。ラストではミラーは命を救ったナチス兵ウィリー伍長に射殺されるし。米兵をいくらヒューマニズムたっぷりに描いても一向に感動に繋がらないのは二等兵救出という(実話がベースらしいが)映画的に無理のある設定だけではなくスピルバーグ自身のナチス兵に対する憎悪の念が観る側に重く残ってしまうから。今までも彼は「レイダース」や「1941」などでナチスを悪役に描いてきたがこの作品では今までの作品とは一線を画しているよ。所詮勝った側の人間だね、彼も。でもまぁ、ミラー大尉のこのセリフは平和な今を生きる我々が忘れてはならない重い名セリフ。

「大自然の中での戦争?」
「何故自然が自らと戦う? 陸と海は和を保っている」

「シン・レッド・ライン」(1999)でのセリフ。舞台は1942年激戦を極めたガダルカナル攻防戦。だが、特に明確なドラマはなく、上陸部隊の先陣を切ったアメリカ軍C中隊が日本兵を倒しながら進む姿を淡々と追い、何人もの登場人物が戦場での苦しみを自問する心の声が全編にちりばめられている。彼等の叫びは日本兵に対する憎しみではなく、人間が殺し合う事の不条理さを問うており、戦場での残酷さと頻繁に挿入される美しい自然や小動物の描写のコントラストとあいまって、幻想的な浮遊感が漂っている。そんな数々の自問の中の1つがこれ。自然は陸と海、相反する存在でも自然の中で調和を保っている。そしてその自然は限り無く美しい。そんな自然の中でお互い調和する事が出来ずに殺戮を繰り広げている人間達・・・。この映画は先の「プライベート・ライアン」の政治的視点とは違い、そんな視点で哲学的に詩的に戦争が描かれている。深く心に染み入る名作です。ただ、日本兵の描き方となるとちょいと納得いかないシーンもやはりあるのだが。92式重機関銃を配備した日本軍のトーチカを正面から攻撃をしかけあっという間に落としてしまうくだりは味方の弾はほぼ命中、敵の弾はほぼハズレという御約束でかなりマンガ的(そもそも日本兵はほとんど銃を撃たず単独特攻)。捕虜となった日本兵には素っ裸の兵もいたりしてどうかと思うのだが、その点を除けばこの映画はかなり良い。スピルバーグのナチス兵の描き方と違って日本兵を悪意に満ちた描き方をしているわけでは決してないからね(狂気の世界で相対せざるを得ない両者といった視点で描かれている)。それにやはりこの映画のメッセージは戦争という殺戮の不条理と狂気を問うといったもので、その描き方の見事さの前には日本兵の描き方などの細かな事はほとんど気にならない。和を保つ事ができず狂気と殺戮の世界で生きる日本兵とアメリカ兵、しかしその舞台となっているガダルカナルの(和を保っている)自然は胸が痛くなるほど美しいのだ。そしてその自然の中で自然と調和し生きている原住民達。彼等の生活はまるで楽園の様。脱走兵のウィット二等兵(ジム=カヴィーセル)は彼等の生活を見て「別の世界を見た」と言う。調和を保つ美しい自然の中で繰り広げられる殺戮。その映像の美しさとのコントラストの中、テレンスマリックが人間の狂気を描いたこの作品。かなり良いです。

「生きるのは苦しいとか何とか言うけれど、それは人間の気取りでね」
「生きてるのはいいもんだよ、面白い」

「夢」(1990)でのセリフ。この映画は黒澤明監督が大作「乱」の後に撮り上げた8つの物語からなるオムニバス・ファンタジー映画で、各エピソードの冒頭には「こんな夢をみた」という字幕が入るだけで、エピソードごとのタイトルは入らない。第1話は少年が狐の嫁入りを目撃する「日照り雨」、第2話は桃の節句に桃の木の精が現れる「桃畑」、第3話は雪山で遭難した男たちが雪女に出会う「雪あらし」、第4話は復員兵が薄暗いトンネルの中で戦友や部下たちの亡霊に出会う「トンネル」、第5話は主人公がゴッホの絵の中に入り込んでゴッホ本人(マーチン=スコセッシ)に出会う「鴉」、第6話は原発の事故で富士山が真っ赤に燃え上がる「赤富士」、第7話は放射能汚染で人間が鬼に変わる「鬼哭」、最後の第8話は笠智衆扮する老人が登場する「水車のある村」。黒澤明の脚本には定評があるのだが、この映画は何しろ監督本人の夢を描いているので、構成力も複線もオチも何もない。が、全くダメかというとそうでもない。8つの話の中ではダメなものもあり良いものもある。「日照り雨」「桃畑」は感覚的な世界観なのだが、ものすごく映像が美しく黒澤流の緻密な絵創りに引き込まれる。「トンネル」の不気味さ、哀しさもとても良い。そして最後の「水車のある村」のオープンセットは美しく桃源郷を思わせ、笠智衆扮する老人の語りが含蓄があって宜しい。上記のセリフはその彼のセリフ。彼は「よく生きて、よく働いて、ご苦労さんと言われて死ぬのはめでたい」だから葬式もめでたいとも言う。哀とした宗教観にとらわれず素直に素朴にそして優しく「生」というものを捉えた彼のセリフはしみじみと心に響く。いやぁ、この映画は批評家さん達には酷評されたけれど上記4つの短編はけっこういいよ。

さてさて、これらの名セリフ、使えるチャンスがあれば使ってみてはいかがかな?