第壱参回:忠臣蔵
時は元禄壱五年壱弐月壱四日深夜。降頻る雪の中、大石内蔵助が鳴らす山鹿流陣太鼓とともに今は無き主君浅野内匠頭長矩の仇を討つべく吉良邸にどっと流れ込む浪士達・・・
毎年年末になるとあちこちで盛んに放映される御存知「忠臣蔵」。年末の風物詩、「忠臣蔵」と聞くと「あぁ、そんな時期か、今年も1年が早かったなぁ」などと皆思うわけでありまして、特に去年は吉良邸討ち入り(1702年12月14日)から300年という事で何かと話題にもなっておりました。まぁ、昨今の若い人達は「忠臣蔵」なんぞよりも12月はもっぱら異国の宗教の御祭騒ぎに夢中でしょうけど。いえ、別にクリスマスが嫌いというわけではなく、むしろあの雰囲気も好きなんですがね。な〜んかい〜いじゃないですか、街中がイルミネーションで飾られウキウキとしたあの雰囲気、特に理由もないのにちょいと幸せな気持ちになれるクリスマスの雰囲気って大好きです。「忠臣蔵」の恨み→仇討ち→切腹ってな御話からは到底こんな気持ちにはなれません。というわけで今回は「忠臣蔵」。
いや、まぁ「忠臣蔵」の知識も知っといて損はないって、日本人として。しかし、最近の若い衆はまず登場人物の名前が読めないのではなかろうかと。
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)
大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)ちなみに「朝の巧みの噛み長海苔」「吉良乞う図毛の介義仲」なんて変換されました。
さて、この赤穂義士の討ち入りの物語が最初に人気になったのは寛延元年(1748年)大阪の竹本座で人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大当たりをとったのが始まり(事件から40年ちょいと経っており、現代で云えば「あさま山荘事件」を映画で上映するといった感じかな?)。主役は大星由良之助、むろん大石内蔵助の事でタイトルに「蔵」とついているのもその事を暗示させてつけられた。「仮名手本」というのもいろは四十七文字で四十七士をさしている。そしてこの大人気を受け、その年のうちに歌舞伎に移された。だから「忠臣蔵」という呼び名も人形浄瑠璃のタイトルであり歴史上の呼び名は赤穂事件。
事件の発端は元禄14年3月14日、江戸城内に始まる。江戸城中松之廊下で播磨赤穂5万3000石藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が高家筆頭吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に突然斬りかかった。吉良は額と右肩に傷を負ったものの居合せた留守居番梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)という旗本が浅野を抱き止めた為大事に至らなかった。梶川によれば浅野は吉良の後ろから「この間の遺恨覚えたか!」と叫び斬りかかったという。
松之廊下とは江戸城内で公式行事が行なわれる部屋である白書院の前の廊下。毎年、将軍から朝廷への年始の御祝いの使者を上洛させると2月か3月にはその答礼として勅使が江戸城へ下向する。3月14日は白書院でその勅使を迎えての儀礼の三日目が行なわれるはずだった。そして朝廷からの使者に対する接待の御馳走役に任じられた大名が浅野内匠頭、そして御馳走役に任じられた大名が勅使を接待する際には非常に細かい手順を踏まなくてはならず、その手順や約束事を教える役職である高家肝煎(こうけきもいり)を担っていたのが吉良上野介であった。 勅使を迎えての儀式の最中に刃傷沙汰という不始末に時の将軍綱吉は激怒。浅野はその日の内に切腹との裁定が下った。愛宕下(東京都港区)にある一関藩主田村右京大夫健顕邸にて切腹。
辞世の句
風誘う 花よりもなお 我はまた 春の名残りを いかにとかせんそして浅野家は領地没収・御家御取り潰しとなる。 ちなみに将軍綱吉は「生類憐れみの令」で有名な犬公方綱吉である。彼は熱心な儒学者でもあり、自ら教書の講義を行ったりもした。この令も「仁」の心を人々に教育しようとしての事だったらしい。いや、確かに良い事なんだけどね、物には何でも程度というものがありますよ。学問好きで真面目一筋・堅物なんて人だったんでしょう、この将軍様は。生類憐れみの令は綱吉死去の1709年、6代将軍家宣によって即廃止された。
さて、浅野家は領地没収・御家御取り潰しとなったが、一方吉良家へは何の御咎めもなし。この幕府の処置に対して御家御取り潰しとなり今は浪人となった旧赤穂藩士達は激怒した。「喧嘩は両成敗のはずではないか!、う〜む・・・にっくき吉良上野介め!」と、吉良を今は無き主君の仇としていつかは討つべしと決意。そして刃傷松之廊下の翌元禄15年12月14日旧赤穂藩家老大石内蔵助を中心とした47人の赤穂浪士達が吉良邸に討ち入り上野介の首級をあげるのである。そして仇討ちを果たした一行は現在の築地の勝鬨橋付近で勝鬨を上げ、浅野の墓のある芝高輪の泉岳寺へと向かった。
翌年2月4日、吉良邸討ち入りに関する赤穂浪士46名に対し幕府の処分が決まる。全員切腹。吉良邸襲撃は不届きであったが主人の仇を報じ武士としての大儀を貫いた行為に免じて武士の礼をもって切腹となった(ここで47人に1人足りないのは足軽の寺坂吉右衛門。討ち入り直前に脱藩したとも、大石が亡君の夫人のところに走らせて後世の証人とさせたとも云われているが事実は定かではない)。最年少は大石の息子の主税(ちから)で16歳。大事に使えば一生持つ命をそんな若くして散らしてしまうのは誠に勿体無い限り。
辞世の句
内蔵助 あら楽し 思ひは晴るる身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
主税 あふ時は かたりつくすとおもへども 別れとなればのこる言の葉「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」というのは細川ガラシアの辞世の句ですが・・・、死んで花実が咲くものか、とも思いますです、はい。 しかしまぁ、このような命を捨てて主君への「忠義」に生きたこの浪士達の話は日本人は昔から皆が大好きだったわけで、今でも年末になると盛んに話題になるわけです。
さて「忠臣蔵」では吉良は悪役なので浅野に対して賄賂を要求、潔癖な性格である浅野はそれを嫌い賄賂を拒否、それを怒った吉良が浅野をネチネチと苛める。勅使を迎える部屋の畳は新しく替えておかなければならないのに、直前までそのままで良いと言い、当日になって「何故替えてないのだ!」と怒る。衣服に対しても逆の事を教えて当日皆の前で恥をかかせる。それに耐えきれなくてなって浅野が刃傷沙汰を起こすってな話になってます。このように設定しないと浅野が何故吉良に襲いかかったのか全くわけがわからない。悪役の吉良が何の御咎めもなしで浅野家が御家断絶、命を捨ててその主君の無念の仇を討つ赤穂浪士達の忠義の心に皆が心打たれるわけです。
しかし、実際のところはどうであったのか?何故浅野は吉良に斬りかかったのか?これが赤穂事件の最大の謎である。この賄賂説、実際のところほとんど根拠がなく、浅野贔屓の人達の噂・後年の芝居としての面白味から巷に流布したようだ。吉良家はその家柄から代々高家肝煎を担っており、彼が受け取る謝礼は接待の指導に対する見返りとして正当なもので吉良家の経済はその収入でなりたっていた。つまり指導料として正当な収入という事ですね。
赤穂藩の優れた製塩技術を吉良が知りたがり、浅野がそれを教えなかったからいやがらせをしたと云う説もある。江戸時代の大名や高級旗本は地域の首長であると同時に地場産業の独占企業主でもあり、塩については海浜地帯に領地を持つ領主達の貴重な財源であったからである。しかし、これも根拠がなく、経営規模が桁違いで生産された塩の用途も販路も違っていたので企業秘密を欲しがる必要もなかったという。そもそも浅野家が常陸の国笠間から赤穂に国替えになった時、塩釜法による製塩技術を吉良家が浅野家に教えたという。
今のところの有力説では、インフレによる貨幣価値の落差に浅野が無頓着であったという事。浅野は以前17歳の時に既に一度この御馳走役を務めていた。それから18年経ち35歳の時に再びこの御馳走役を命じられたのである。江戸時代は太平の世が続いたので経済成長が著しく、特に元禄年間は町人文化の華やいだ高度経済成長期でもあった。また、貨幣の改鋳が行われて質が落ちた為に激しい物価上昇を招いていた。このような経済事情に疎かった浅野は、20年近くも前に御馳走役を果たした時の感覚で予算を見積もっており、吉良が必要だと考えるだけの準備はそれでは出来るはずもなく、吉良との対立を引き起こしたというのだ。そして、浅野はストレスが溜まり心身の調子を崩してしまった。実際事件の日の朝には登城前に「痞気(つかえ、胸が塞がって息苦しい事)」の為、侍医に投薬を受けたという。かなり神経が参っていたのだ。
この有力説が真実だとするとかなり可哀相なのは吉良上野介。デキの悪い生徒にいきなりキレられて襲われ、一命を取り留めたと思いきや、そのデキの悪い生徒の舎弟連中に殺されてしまったという事だ。江戸城で刃傷沙汰を起こせば御家断絶はわかりきった事。御家断絶になれば一族郎党以下その藩の藩士、藩士の家族まで路頭に迷う。そんな大事に思いも至らないでカッとなって刀を振り回すというのはどうも思慮分別のある人間のやる事とは思えない、ていうか最近のすぐキレちゃうガキのやる事。そのような人物だもの経済事情に疎かったのも肯ける。赤穂の人達には悪いがどうも浅野内匠頭はとても褒められた人物ではないように思える。大石内蔵助以下四十七士の命は果たしてこのような人物への忠義の為殉じる必要があったのかどうか・・・。いや、武士道の精神はもちろん敬愛してやまないのだが、しかし忠義に殉じた義士達の話「忠臣蔵」がいまいち好きになれないのはここなんですよね。戯曲である「忠臣蔵」は日本史上に残る名作だが、史実としての赤穂事件は愚鈍で短気な藩主浅野内匠頭によって起された一連の悲劇とみる方が正しそうだ。ちなみに実際には当日は雪は降っておらず、討ち入りの火事装束も山鹿流陣太鼓も戯曲上のフィクション。
さて、この吉良邸討ち入りだが実は幕府は事前に計画を掴んでいた、というのが今では定説。治安の厳しい江戸では浪人が徒党を組んで行動するなどという事はまず無理。また当時は標準語などというものがないから方言の違いでよそ者という事はすぐわかる。昔は情報媒体が少ないうえ、物資の流通や封建制の問題も絡んで地方地方で特殊な訛りが強かった。ちなみに仇討ち(仇討ち免状を貰っておけば仇討ちは認められる)制度があった江戸時代に、いかに人口が少なかったとはいえ、仇討ちの相手の移動経路がわかっていくのは本人の訛りが目星になるからだ。誰かの仇になり浪人となって江戸に出ても生国の言葉を遣い郷土産の着物を着て差し慣れた愛刀をそのまま身に付けている。刀の拵え(こしらえ)は各藩、各地方で特徴があり侍が見ればどの地方の物であるかすぐわかる。播州訛りの侍達が江戸の町人達の、しかも吉良邸のすぐ近くに何十人も住み出したら、こりゃ気が付かない方がおかしい。そして吉良邸が元禄14年9月に本所松坂町に替えられた。それまで吉良邸は呉服橋にあり、その前は鍛冶橋にあった。いずれも江戸城の城内の地でここには討ち入る事は不可能。つまり幕府が討ち入り易い場所に吉良邸を替えたのだ。何故幕府は浪士達の討ち入り計画を黙認したのか?「どうやら浅野に対する裁定に不満を持つ輩が多いらしい、幕府に対して恨まれてはかなわん。いっその事吉良を討たせよう」てなところらしい。やはりこの一連の事件の最大の被害者は吉良上野介義央その人に他ならないだろうなぁ(ちなみに松之廊下で背後から浅野を抑えて斬らせなかった梶川与惣兵衛も「武士の情を知らぬイヌ侍」と罵られた、彼もまたちょいと可哀相)。
吉良の悪い噂話はこの他にいくつかあるのだがどの噂も出所も出まわった時期も定かでなく、事件後浅野擁護派の人々が吹聴してまわったという可能性が極めて高い。吉良家は足利家の庶流で、室町時代には「公方[くぼう]絶ゆれば吉良継ぐ、吉良絶ゆたれば今川継ぐ」と謳われたほどの名家であり、徳川家との縁も深い(系図を徳川家に貸したという話もある)。名家ゆえの頭が高くなる事も時にはあっただろうが地元愛知県幡豆郡吉良町では今も洪水に苦しむ領民たちのために一夜で「黄金堤」を築いた、妻の富子の眼病回復祈願として「富好新田」を拓いた、赤馬にまたがり巡回をして親しく領民と接した名君として知られている。一方の浅野側の赤穂では赤穂浅野家が断絶になったとき領民が餅をついて祝ったという話が伝えられていたり、現在でも大石内蔵助は神格化されているのに対して浅野内匠頭はほとんど忘れられているという事実、そして松之廊下の刃傷沙汰の当時上野介の手当をした医師栗崎道有が傷の完治後にも往診を続け、赤穂浪士に斬られた上野介の首と胴体を縫い合わせ、さらには上野介と同じ寺に葬られたという事実を考え合わせると・・・ていうか、これが妥当な判断だよね。ぶちキレて斬りかかった人間よりも斬られた人間の方が悪いなんてどうにも納得がいきません。
赤穂浪士の忠義の心は誠に立派であるが、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)その人もまた仇敵となるような人物でもなかった。義に殉じた四十七士と吉良上野介義央のその魂よ、安らかなれ。ついでに浅野内匠頭長矩も・・・、短気は損気 合掌。
上演:文化13年(1816)7月 中村座
役者:由良之助 (7代)市川団十郎、 師直 (5代)松本幸四郎、 数右衛門 (3代)坂東三津五郎(2003/11/28 Written by SAMURAI)