桜紅夜情
少女は、暗く細い山道を歩いて行く。
山歩きには不似合いなサテンのワンピースを着て、踵の細い華奢な靴を履いて。
鮮やかに光を反射する唇はワンピースと靴と同じ真紅であり、全て彼女の叔父が彼女の16歳の誕生日にプレゼントした物だった。
その叔父が行方不明になって、一ヶ月が経つ。
叔父さんっ子であった彼女はふさぎ込み、学校にも行かなくなった。
心配した母親は親しい級友である了に助けを求める電話をかけた。
電話の内容は、明日にでも来てほしいということだった。
しかし、了は、いてもたってもいられず時間を考えず、明美の家に向かってしまった。
そこで、了は、夜の闇の中、窓のすぐ側の木を使い部屋から抜けだす彼女を見つけた。
そして、奇妙な予感を感じ、声をかけず、黙ってあとを追った。
彼女の叔父の失踪は、幸せな家庭を破壊した。
叔父のゆうきは、実直で人望も厚く、妻を大切にする優しい男だった。
彼は妻だけでなく誰に対しても優しくかった。
6つ離れたたった1人の姪の明美のことも大層可愛がり、そして明美の心の中も優しいおにいちゃん(小さい頃はそう呼んでいたそ
うだ)のことで一杯だった。
朧げな満月の下、その仄かな光を受けて微かに光る彼女の赤さだけが了の道標だった。
なのに、彼女自身は了のことなど気づいていなかった。
了の足が枯れ草で滑り、膝をついた。
鈍い痛みに顔をしかめ、ふたたび明美に視線を戻した時、彼女は木の陰に隠れる寸前だった。
了は痛む足を引き摺りながら、あせって彼女を追った。
彼女は周りに無関心で歩を速める。
必至に追う了には仕方がないことだと思いながら、その無関心さが哀しかった。
ふいに視界が開けた。
そこは小高い場所に作られた農業用に造られた貯水池だった。
側の狭い空き地には、一本の桜の木が立っていた。
その下に彼女がいた。
肌寒い夜気の中、絢爛と咲き誇る真白な桜の前で、彼女の紅い姿は映え、華やかに佇んでいた。
その時になって初めて、了は明美に声をかけることができたのだった。
「明美。」
彼女は振り向いた。
了は、明美と初めて逢った時の表情を思い出した。
委員の仕事で後ろから声を掛けた時、彼女はかなり驚いた顔で振り返ったのだ。
引き込まれそうな表情に了言葉をなくした。
そんな了に明美は笑いかけ「驚いた。あなた、叔父さんの声にそっくりなんだもの」と、言った。
それ以来、彼女は何かと了に話しかけるようになり、周りからも公認の仲のように見られていた。
今、驚いて振り返った彼女はあの時と正反対の反応を示した。
哀しげに表情を曇らせたのだ。
「了……。どうしてここに。」
了は黙って彼女に近づき、彼女はとまどいながらもいつもの親しさで微笑んだ。
「ここでよくゆうきと遊んだの。」
了は、そのことを彼女の口から聞いてよく知っていた。学校での彼女の話題の半分は優しい叔父のことで占められていた。
しかし、叔父のことを「ゆうき」と名前で呼ぶのは初めてだった。
叔父のことを語る彼女はとても生き生きとした表情をしていて、何か魅かれるものがあった。
その半面、叔父に対する彼女の思いに嫉妬を覚えることもあった。
そして、今も。
了は、明美に歩みよりながら、問い掛ける。
「明美はどうしてここにいるんだ。」
答えは判っていた。
「ゆうきを待っているの。」
「君の叔父さんは君を置いて行ってしまったんだ。もう、帰ってこない。」
こんなことを言うつもりはなかったのに、心の底に渦巻く薄汚れたものが了にそう言わせた。
「違う! ゆうきはあたしを迎えに来てくれるのよ。ほら、桜がきれい。真っ白よ。ゆうきがよく似合った白に。」
彼女がそう言っていたことも、叔父が彼女には紅が似合うと言ったことも了はよく覚えていた。
自分のことを無視して叔父のことを話す彼女に、了の心は黒く塗り潰される。
彼女と二人でいる時も、級友達に冷やかされている時も、了は叔父の影に脅えていた。血のつながった叔父であるということが唯一の救いであり、失踪したと聞いた時は喜びすら覚えた。
母親に彼女のことを頼まれた時、それを当然のことと受け取った。なのに、今の彼女を見ていると了はその時感じた自信を失いそう
だった。
黒い吐瀉物が了の喉を押し上げる。
「彼は、奥さんまでもらい、そして、君を置いて蒸発したんだ。君が思っているほど彼は君を愛していない。」
了が口にした、初めての叔父の批判だった。
それに呼応するかのように明美の表情に憎悪が浮かぶ。
「ゆうきは、会社のためにあの女と政略結婚したのよ。愛してなんかなかった。ゆうきが愛してたのはあたしだもの。」
「今、彼はどこにいるんだ?」
君を愛してると言う叔父さんは今はどこにいるというんだ。君の側にいないじゃないか。いるのは俺だろう。
了の心は血を流して、絶叫していた。それでも、言葉にはできなかった。
「帰ろう! ここにいちゃいけない。」
「いや!」
了もかなり感情的に叫んだが、それ以上に明美は感情をむきだしにしていた。
睨みつける明美の目に憎悪の紅い炎が灯る。
了は明美の瞳の中に狂気と同等の叔父に対する愛情を見つけた。
そして、自分の心の中のゆうきに対する憎しみと同等の明美に対する愛情を。
「もう、これ以上、あたしとゆうきを引き裂くものは許さない」
明美の細い指が了の首にかかる。
信じられない力が了の首を締め付ける。
彼女を傷つけない限りこの苦しみから逃れられないだろう。
そう思うと、了から抗う気力は失せた。
「ゆう…き………。どうして、あたしたちは血が繋がっているの?たったそれだけの理由であたしではなくあの女を選ぶの?」
明美の瞳から透明な滴がこぼれ落ち、腕を伝い、了の首筋へ流れつく。
自分を殺そうとしていても、彼女の涙は温かかった。
了の血液は行き場を無くして熱く煮えたぎる。
こうやって、彼女は叔父も殺したのだと、了は直感的に悟った。
ここに叔父を呼びだし、しがみつく明美、最初は殺すつもりはなかったのに、嫉妬に狂った彼女は叔父と揉み合っているうちに首に
手を掛け、彼に対する愛の強さそのままに力を込める。そして、彼は了と同じように彼女の手に掛かって死ぬことを選んだのだろう。
『けれど、君は死んじゃいけない。』
朦朧とした了の脳裏に、誰かの声が聞こえた。
『僕は間違っていたから、責任を取るべきだったんだ。でも、君は死んじゃいけない。これ以上彼女が罪を重ねないうちに彼女を連れ
て行くよ。』
連れて行くという言葉に反応して、了は重たい瞼をこじ開けた。
その時、了は薄れ行く意識の中、明美の後ろの桜が身悶えしたのを見たように思えた。
明美の細い手首に花びらが舞いおり、その手から力が抜けた。
風が吹いている訳でもないのに、次々と花びらは明美に降りそそぎ、体に張り付き離れなかった。
明美は花びらに自由を奪われていく。少しだけ瞳を見開くことしかできず、花びらを振り払えなかった。
見るまに白い花びらが明美の服や体を埋め、紅かったワンピースを白いウエディングドレスのように見せていた。肩を越す髪に張り
付いた花びらは花嫁のベールを思わせた。
今や、驚愕の表情を浮かべた明美は操られるようにぎくしゃくと貯水池の方に向かった。
その時になって了はようやくはっきりと意識を取り戻すことができた。しかし、明美の動きを止めようとした了を止めたのも吹きつ
ける花びらだった。
花びらの張り付いた体は動こうとせず、了は唯一動く目で必至に明美の姿を追った。
そして、了は見た。
水面にゆっくりと浮かび上がってくる二本の腕を。
明美も見た。
白いセーターを纏った、男にしては細い、しかし、見覚えのある優しい手。
「ゆうき………。そこにいたの。」
彼女の動きからぎこちないところが消え、自分の意志で動き始め、表情は愛する者に対するものへと和らげられた。
「そうよね。あたしがあたしがそこにいてって言ったんだわ。ごめんなさい。あたしもそこに行くわ。ゆうき。」
行くな! 了の想いは言葉にできなかった。
貯水池の縁に立った彼女は両手を差し出し、恍惚とした表情を浮かべ、純白に染まった全身を水面に投げ出した。
明美の手と池から突き出された両手が触れた一瞬を了は見た。
すべてをあずけもたれかかるように瞳を閉じ、至福の表情を浮かべた明美を。
激しく上がる水しぶきに了の行き場のない想いは乱され、拡散された。
降りかかる飛沫が静まるとともに心も落ち着いて行った。
水しぶきが収まったあと、二人の行方を隠すかのように水面を花びらが埋めた。
ひとり残された了に花びらが降りそそぐ。
心は不思議なほど静かだった。
体は自由になっていたが、すぐに動き出す気力はなかった。
彼に二人のあとを追うことはできなかった。
彼等と死を分かち合うことはできないのだと分かりすぎるほど分かっていた。
了はゆっくりと立ち上がり、後ろを見ずに山を下りた。
その夜のことを、了は誰にも言わず、二度と貯水池にも行かなかった。
翌年、桜は淡い桃色の花を咲かせたことを了は噂で聞いた。
二人の恋の成就の証しであったかもしれない。
了には素直にそう思えた。