存 在
 「ああ,疲れた。今日も残業,普通だったら労働基準法違反だね。でもみんな頑張ってるし,今の仕事なかなか難しくてもっと勉強しなくちゃ理解不能なの。私だけ,先に帰るわけにもいかない。もっと自分で理解して,役に立つようにしなくちゃ。
夕飯食べてないけど,まあいいか。帰っても誰もいないし寝るだけだし。」
 「鍵,鍵・・あった。アパートの自分の部屋。寝に帰るだけになっちゃった。」
 玄関で靴を脱いでいると,何となく人の気配がする。
 「私ひとりだもの。誰もいるわけないじゃん。まさか泥棒?だったらドア開けたままにして,声 かけてみよう。
 『ただいま。』 
 「泥棒だったら逃げていくよね。」少し時間の空白があって
 「お帰りなさい。みんなで待ってたのよ。あなたを早く入りなさいよ。」
 やけになれなれしい声がする。私の知ってる人?でも今日誰か来るなんて聞いてない。お母さん言い忘れたのかしら?」
 明かりもついていない。玄関のスイッチをつける。そこには何人もの人がいる。大人。子供,でもどこかでみんな見たことのあるような顔。
 「何立ってるの。座ったら自分の部屋でしょ。みんな待ちくたびれてるの。」
 「ねえ,あなたたち誰。人の部屋に勝手に入って,誰か来るなんて聞いてない。」
 「何言ってるの。私たち,あなたじゃない。自分の顔忘れたの?よく見なさいよ。みんなあなた自身よ。」
 「そうだ,どこかで見たと思ったのは私の顔だったから。あの子は6年のときの私,こっちは幼稚園,それにこっちは。どういうことよ。疲れてるのよ。まぼろしよ。目を閉じてもう一度開けたら,みんな消えてる。」
 「そんなことしても無駄よ。落ち着いて座ったら,私が一番年上みたいだから,私から話すから。大学時代のあなたよ。私は。」
 「そういえば,地味な服装だ。電車の中で,テスト勉強してたら隣の人が学校の先生ですかって,声をかけてきたっけ。まだ教育実習にも行ってなかった時だったかな。昔から老けて見えるんだよね。」
 狭いアパートの部屋は,でいっぱいだった。その真ん中に一応座った。
 「ねえ,聞いていいかしら?どうしてこんなに私が集まったの。まぼろしでも自分だと思うと怖くはないけど,不思議な光景じゃない。」
 「あなたに忠告しに来たの。私たちみんなで,あなた頑張りすぎよ。何でも引き受けてできることとできないこと。きちんとしないと今に身動き取れなくなるわよ。人間能力って限られてるの。適材適所ってあるでしょ。これからやろうとしてる仕事だって,基本から勉強しなくちゃなんて,思ってない?別段ストレス発散してるわけじゃないし,溜まる一方じゃない。心配して来てあげたのよ。少しは感謝してよ。」
 「感謝?感謝どころがそれぞれの私がもっと,積極的だったら私,こんなに苦労しなくて済んだかもしれないのよ。幼稚園くらいからしか記憶ってないけど,もっとのびのび友達と遊んだりしてたら,私,もっと人付き合い上手くなってたと思うわよ。小学校時代もそうよ。教室に1人で!外で一緒に
遊ぼうって行けばよかったのよ。運動神経が鈍いっていっても,子供の頃から少しでもやってれば,こんなにひどくはならなかったわよ,ねえみんなに当てはまるの。聞いてる。考え方にしたって,もっと,柔軟な物の見方できるようになったかもしれないじゃない。1人でちまちま本からだけ学ぶから,良い発想が生まれないのよ。それで私,悩んでるんだから。何が忠告よ。」
 「それは,私も思う。私6年生のあなた。5年生の時からいじめられてどんなに悩んだか。もっとみんなとなかよく遊んでいればいじめの対象になることもなかったと思うの。」
 「そうよ,私の積み重ねてきた人生が,今の私なのよ。忠告なんて馬鹿らしい。出て行きなさいよ。あなたたちができなかったから,こうなったんだから。みんな消えちゃいなさいよ。ついでに私も消して欲しいわ。そうすれば楽になれるもの。ねえここにいる私たち全部消えてしまわない。それがいいわよ。」
 「今のあなたが,消えてしまいたいというなら,そうすれば良いわ。私たちは今のあなたが存在するから,こうしてここにいるのだから。忠告にも来れたんだから。あなたが消えれば私たちも存在しない。」
 「そうね,最初から私は存在しなかった。いじめも,仕事の重圧も上司との軋轢も,1人の寂しさも何もかも全部消えてちょうだい。」
 1人づつ,消えていく。私が,そのたびに現在の私も透明になっていく。一人減り二人減り,最後の私が,消えたとき,現在の私はそこにはいなかった。
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