
サン・テグジュぺリと星の王子さまが描かれた50フラン札
93年にフランスで発行された
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今なお多くの人に愛されている不思議な童話「星の王子さま」の作者アントワーヌ・ド・サン・テグジュぺリ。
彼が、作家であると同時に空をこよなく愛した飛行家でもあったことはよく知られています。
彼は郵便飛行機のパイロットでしたが、他にも冒険飛行家として幾たびも空を飛んでいました。
人によって小説の読み方、解釈の仕方、感想などは分かれると思うのですが、私にとってこの人の書く小説は、空を飛ぶ鳥が風を感じるように、空を飛ぶ者だけが表現出来る一種の透き通るような感性を感じます。私は、実際自分で空を飛んだことがないので、これは想像にしか過ぎないのですが。
彼は、1935年にパリ-サイゴン間の記録(懸賞飛行)に挑戦しましたが、途中でリビアの砂漠に不時着し、九死に一生を得ています。その遭難の顛末を彼は「人間の土地」という作品で詳しく書いています。
この時の経験が「星の王子さま」の元になったというのは、今では多くの人が知る有名なエピソードです。
この事故の他にも、作家サン・テグジュぺリには不思議なエピソードが数多く残されており、それが、さほど数の多くない彼の作品にどこか神秘的な彩りを添えています。
そして、星の王子さまが最後に自分の星へと還っていったように、彼もまた、戦火の空へ飛び立ったまま還らぬ人となったことが、この物語を悲しくも神秘的なものにしてしまったのでした。
「大切なことは眼に見えないんだよ…」
彼は、どのようにして亡くなったのでしょうか
今回、ご紹介するのは、彼にまつわる飛行機と、そして今なお謎に包まれている彼の最後についての物語です。
彼が”王子さまに出会うきっかけ”を作った飛行機…実はここ日本でも見ることが出来ます。
どこで見ることが出来るのか?というと、実は佐賀県の背振山なのです(佐賀県は私の郷里なので、私も帰省する時にしばしば眼にします)。
もっとも墜落事故を再現したダミーの飛行機なのですが…
飛行機の名は「シムーン」。セーラームーンではありません(笑)。優美な名前に恥じない美しいフォルムと優れた性能を持つ、フランスの高貴な飛行機です。
フランスの飛行機、といったらお国柄のせいか優美なデザインを想像される方は多いと思います。シムーンは、そんな想像を裏切らない飛行機といって良いでしょう。とても70年前に作られた飛行機とは思えません。
まだ、飛行理論も全て知り尽くされた訳ではない1930年代は飛行機にとっての揺籃期でした。空を飛ぶことだけに必死で飛行機にデザイン美を追求する余裕などあまりありません。無骨な飛行機が大空を舞っていた頃にコードロン社が開発した「シムーン」は、現在のビーチクラフト機を思わせる近代的なデザインと高性能で人々を驚かせました。
1930年代の空は、あたかも現代の人々が宇宙旅行に憧れるような、数々の大冒険や競技の舞台でした。多くの飛行家…というより空に魅せられた冒険野郎達が痛快な冒険譚や数々の記録を打ち立て、人々はそんな話題に熱狂していたものでした。
そして、そんな空の冒険が盛んなフランスの国情とコードロン社の先進的技術が結びついて生まれたのが、「シムーン」だったのです。
”シムーン”という名はサハラ砂漠に吹く熱風のことで、この飛行機を表すのにぴったりの名前でした。「シムーン」は低翼単葉・密閉キャビンという高級単発自家用機の原点となる先進的なスタイルを持ち、当時の戦闘機にも匹敵するほどの巡航速度を出すことが出来ました。
まさに、冒険を夢見る冒険野郎が冒険の為に駆る飛行機!というわけです。
コードロン社スポーツ機 「シムーン」
やがて日本にも、フランスが生んだこのサハラの熱風はやって来ました。
しかし、はるばる海外からやって来たこの熱風は大して険しくもない佐賀県の山に阻まれ、敢え無く失速してしまうことになります。
1936年(昭和11年)、パリ・東京間を100時間以内に結ぶ懸賞飛行レースが開催されました。
飛行家アンドレー・ジャピーは愛機シムーンと共に勇躍このレースに参加します。そして長い旅路の末、12月19日、いよいよ最後の航程として香港から東京に向かって飛び立ちます。
彼は、まるで映画 「紅の豚」のような真紅の機体を駆って東京へ飛び続けましたが、肝心の燃料が心細くなってしまいました。更に、九州に近づく頃からは霧も立ち込めてきました。
彼は、勇敢と無謀の境界を知る賢明なパイロットでした。彼は、このまま飛行しては危険だと判断し、航路の途中にある福岡県博多湾の鷹ノ巣飛行場へいったん着陸しようと考えます。
しかし、不運なことに霧の中で突然現れた背振山を避けきれず、彼のシムーンは山腹に衝突してしまったのです。 (この時の事故の模様を復元した様子が佐賀県の背振山に今も残っているのです。)
パリから不時着に至る間を加えた通算飛行時間、何と75時間45分!
しかし、フランスから吹いた砂漠の熱風は残念ながらあと一歩というところで東京に届かなかったのです。
一方、1935年にパリ-サイゴン間の懸賞飛行レースに挑戦したサン・テグジュぺリの「熱風」もご存知のようにリビア砂漠で立ち消えてしまっています。
どうやら、幸運の女神はサハラの熱い風はあまりお好きではなかったようですね。
王子さまはどこかしらしずんだ顔になって、いいたしました。
「まっすぐどんどんいったって、そう遠くへいけやしないよ…」
しかし、挫折や事故も多かったとはいえ、こんな無邪気で楽しい空の冒険家が世界を闊歩する時代は、そう長く続きませんでした。
大空への憧れに熱狂していた人々の楽しい笑顔は、やがて鍵十字の帝国が熾した鉄と炎の嵐の前に、はかなくかき消えていきます。
まもなくヨーロッパは苦しく長い、戦乱の時代を迎えるのでした。
リビアで「彼」が不思議な少年と出会い、別れた小さな物語から5年の歳月が流れた頃…人類史上最大の悲劇といわれる第二次大戦が始まりました。
ヒトラーの獅子吼のもと、ナチスドイツ軍はフランスが恃む国境の要塞前線「マジノライン」を迂回し、アルデンヌの森から戦車を先頭に押し寄せました。
見事に裏をかいたドイツ軍を前に、不意を突かれたフランス側連合軍は敗退を重ねるばかりでした。兵士たちは雪崩を打って敗走します。
更に、追撃するドイツ軍に追われた罪のない多くの避難民が当てもない苦しい逃避の旅へと追いたてられます。西へ、西へと…
しかし、彼等が追い立てられる先に希望はなく…
もし、私だったら…いいえ、彼もきっとそのとき、苦しみと悲しみと憎悪で一杯の気持ちだったはずです。
フランス空軍の偵察機パイロットとして空を飛ぶサン・テグジュぺリは、胸も張り裂けんばかりの思いで、その光景を見つめていたに違いありません。
敗退した連合軍はちりぢりに分断されました。オランダ、ベルギー軍は降伏。イギリス軍はフランス北岸のダンケルクに追い詰められます。孤立したフランス軍は、ドイツ軍の追撃から何とか人々を逃がす為の時間だけでも稼ごうと反撃作戦を立てました。その為にはドイツ軍のどの部隊がどこにいるのかを精確に知る必要があります。
そこで、敵の情報を得るために、サン・テグジュぺリの部隊が偵察飛行を行うことになりました。彼は、この時ブロックMB174型という最新型偵察機に搭乗し、低空から敵の様子を探っています。
しかし、当時のフランス航空技術はドイツにやや立ち遅れており、フランス戦闘機はドイツの最新鋭戦闘機メッサーシュミットの敵ではありませんでした。高速偵察機と謳われたブロック174型でさえもドイツ戦闘機に追いつかれ次々と撃墜されていました。
それでも、サン・テグジュぺリとフランスのパイロット達は空への戦場へと勇敢に飛び立っていきました。
しかし…
そこに、もうあの平和な空はありませんでした。
空には銃弾が飛び交い、地上には悲しみと苦しみの声があふれ…
危険を顧みずに幾度も飛び立つ彼を護ろうと、フランス戦闘機隊は追いすがるドイツ戦闘機の前に勇敢にも立ちはだかりましたが、その多くは敵の好餌となって散華しました。
多くの同僚の犠牲と引き換えに、サン・テグジュぺリはドイツ軍の情報を友軍に伝えます。
ブロック社 MB-174型高速偵察機
しかし、それを基に行った必死の反撃作戦も、怒涛のようなドイツ軍の攻撃の前にあえなく潰えます。土の壺が鉄の壺にぶつかってゆくようなものでした。
それからまもなく、フランスは降伏しました。パリ市民の慟哭のなかを鍵十字の軍隊は凱旋門をくぐり抜け、高らかな行進曲と共に入城してゆきました。
失意のサン・テグジュぺリはアメリカへと逃れます。
ニューヨークで有名作家として迎えられたサン・テグジュぺリは、そこでフランスを救う為アメリカの参戦をうながす運動を行いました。
しかし、祖国への愛、大空への思い、そして何よりもフランスに残してきた多くの友人達の苦衷を忘れることは出来ませんでした。
やがて彼は戦線へ復帰しようと考えます。
キツネはいいました。
「人間っていうものは、この大切なことを忘れているんだよ。だけど、あんたはこのことを忘れちゃいけない。めんどうを見た相手にはいつまでも責任があるんだ。あんたは守らなきゃいけないんだよ。あのバラの花との約束をね…」
1943年、サン・テグジュぺリは43歳にして自由フランス空軍偵察飛行隊への復帰が許されます。
翌年には地中海のコルシカ島に基地を置く第233偵察大隊に配属され、祖国フランスへの写真偵察任務に就きます。
そこで彼に与えられた乗機は、アメリカ製の精鋭戦闘機P−38”ライトニング”でした。
そして、これが彼の乗る最後の飛行機となったのです。
P−38「ライトニング」は、アメリカが生んだ大馬力、高速の戦闘機として戦時を知る多くの人が今なお記憶している名機です。
この戦闘機は、世界最大の大国アメリカが作っただけあって、「ライト」どころか贅沢な設計思想のもとに開発されていました。何より他の戦闘機と大きく異なるのはエンジンが2つあることで、更に細長い胴体と翼を格子状に組み合わせた独特の形をしていました。
やがて完成したライトニングは初飛行し、テストを受けます。その結果を見た軍の関係者はこう叫んだそうです。
「これで、この戦争は勝った」
完成したこの戦闘機は、小回りが利かない代わりに長距離飛行が可能で、最高速度や加速もずばぬけて優れていました。そればかりか、大型爆弾から機関砲まで沢山の武器を装備した上に充分な防御装置も備え、空中戦から偵察、爆撃まであらゆる任務を行うことが出来たのです。
ロッキード社 P-38型戦闘機 「ライトニング」
やがて、連合軍の反撃と共に登場したこの万能戦闘機は、ヨーロッパやアジアの戦場で七面八臀の大活躍を繰り広げます。友軍であるイギリス軍や自由フランス軍からは「守護天使」と頼りにされました。
しかし、この機を敵に回した枢軸国の兵士達からは、その独特の機型、強力な攻撃力となかなか撃墜出来ない頑丈さから「尻尾の裂けた悪魔」「双頭の死神」と憎まれ、怖れられました。
ヨーロッパを隔てた太平洋の戦場でこの戦闘機が起こした最大の衝撃は、日本海軍屈指の連合艦隊司令官、山本五十六が爆撃機に乗って前線を視察していた時にこれを待ち伏せて撃墜する、というまるで暗殺のような離れ業をやってのけたことでした。
ライトニングに搭乗するサン・テグジュペリ
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7月31日、コルシカ島から偵察飛行に飛び立ったサン・テグジュぺリが故郷のリヨンを間近にして、つい帰途のコースを外れていったのはあまりに危険な行為でした。
彼のライトニング機は偵察用カメラを積む為に全ての機関銃を外していたのです。
しかし、それでもフランスへ操縦桿を向けたのは、きっと望郷の念が押さえ切れなかったことと、乗っていたこのライトニングの性能が優れていたことを頼りにしていたのでしょう。
しかし…
僕は、赤んぼうでも抱くようにしっかりと抱きしめましたが、王子さまのからだは、どこかの深い淵に落ちていって、引き止めようにも引き止められないような気がしました…
南フランスの沖合いに差し掛かった彼が、彼方に見える故国を前にして、望郷の想いを馳せていた時
それまで見たことのない精悍なスタイルをした不気味なドイツ戦闘機が彼の背後に迫っていたのです。
そう…まるで、王子さまを故郷に還すために音もなく忍び寄っていったあの毒ヘビのように…
この頃…1944年のドイツ空軍には、もはや、かつてヨーロッパの空の覇者であった面影はありませんでした。第二次大戦の開戦時には無敵を誇った花形戦闘機メッサーシュミットBf-109も、この頃には時代遅れがかった旧式機に落ちぶれ果てていたのです。
弱くなってゆくドイツ空軍を更に追い立てるように、連合軍の大型爆撃機が大編隊でドイツ本土の石油施設や工場を爆撃してゆくようになりました。迎撃に飛び立ったメッサーシュミット戦闘機は逆に「空の要塞」B-17爆撃機の返り討ちにあったり、高性能の護衛戦闘機ムスタング、スピットファイアに追い回される有様でした。
こうして1944年のドイツ空軍は、空の戦場から締め出されてしまいました。
それでも、ドイツ空軍は、性能で優る戦闘機で劣勢を覆したいと考えます。
敵戦闘機に負けない空中戦の性能を持ち、更に敵爆撃機を楽に撃墜する攻撃力とスピードを持った万能戦闘機が欲しい。
そんな空軍の要求に対して、フォッケウルフ社の天才技術者クルト・タンク博士が出した答え。
それが、フォッケウルフFW190-D9型戦闘機だったのです。
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フォッケウルフ社 FW109D-9型戦闘機 「ドーラ」
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丸く細い胴体、カミソリの刃を思わせる翼。
そして、この戦闘機の最大の特徴は細長い水冷式エンジンを積むために機首が異様に長いことでした。
そのため 、後にこの戦闘機と戦った連合軍のパイロットからは「長っ鼻のドーラ」と呼ばれ、恐れられることになります。
何より、この戦闘機の最も優れた能力は高高度での迎撃性能に優れていたことでした。
ドイツから地球をグルリと回った反対側では日本では高高度を飛ぶ「超・空の要塞B-29」の飛行高度まで上昇する力はおろか、追いつくことさえほとんど出来ませんでした。
しかし、この「長っ鼻」は高度1万メートルで時速680kmという高速を叩き出すことが出来たのです。
これほどの性能を持った戦闘機は、当時まだ世界中どこを探してもありませんでした。
そして、空中戦では連合軍の主力戦闘機スピットファイアやムスタングを軽々と打ち破ることが出来ました。
そして、「長鼻」と呼ばれたこの戦闘機には、もうひとつの仇名があったのです。
後に、その細長い身体で素早く敵の後ろに食いつき、機関砲を撃つ様子を見た連合軍のパイロットから、いつしかこんな声が聞かれるようになるのです。
「まるで毒ヘビのようだ…」、と。
そして…
「故郷に帰りたい」と願っていた一人の男が空を彷徨っていた時、
偶然にも、この毒ヘビは試験飛行の為に初めて放たれた空で、彼を見つけたのです…
王子さまは声ひとつたてませんでした。そして、一本の木が倒れでもするように、しずかに倒れました。音ひとつ、しませんでした。あたりが、砂だったものですから…
「彼」を見つけたのは、フランスのオルジュ基地から飛び立った2機のフォッケウルフ戦闘機。搭乗していたのはハイフェル士官候補生とヘーゲル伍長でした。
彼等は、ドイツ空軍のエースではありませんでしたが、すでに歴戦のパイロットを数多く失っていた当時のドイツ空軍にとっては貴重な飛行士でした。一度は18機ものイギリス戦闘機に囲まれたものの、このうちの1機を撃墜して脱出してのけたほどのベテランパイロットだったのです。
ヘーゲル伍長は戦後、次のように語っています。
「確か、キャスティランヌ上空だったと思います。1機のライトニングが緩やかに高度を下げながら飛んでいるのを見つけました。やや低速で、まるで迷子になって空を彷徨っているようにも見えました。驚いたことに、そのライトニングは単機で我々の編隊に向かって急降下してきました。一緒に飛んでいたハイフェルは、旋回してライトニングをやり過ごすとスピードを上げて追撃を開始しました。ライトニング機は、そのまま加速しながら逃げる様子を見せました。やや斜め後ろにハイフェル機は近づくと、射撃を開始しました。ライトニング機は何度かハイフェルの攻撃をかろうじて回避しましたが、最後に右エンジンに被弾し、白煙を吹いて降下していきました。そして、海に激突し、海面を何度かスピンした後、海中に沈んでいったのです。サン・ラファエルの沖合いでした。私には、何故あの戦闘機が攻撃もせずに、たった一機で我々の前に飛び込んできたのか分かりませんでした。」
この証言を確かな真実として裏付けることは出来ません。
何故なら、ハイフェル候補生はその後、別の空中戦で撃墜され、戦死したからです。
もちろん、彼は自分が、かの有名なフランス作家を撃墜したことは何も知りませんでした。
更に、この撃墜劇自体もハイフェル候補生が手紙で書いたものに基づくものなので、ドイツ空軍の記録として正式に登録されていないのです。手紙も戦後に発見されたものなので真偽が疑わしいと言われています。
もう一人の証言者であり、この撃墜劇の唯一の生存者であるヘーゲル伍長のこの話は、戦後、自分の所在についてを秘匿するという条件でフランスの雑誌にインタビューされたものです。従って、真実として疑うことは簡単です。彼本人であるかどうかも分からないのですから…。(彼は、ドイツの敗戦前後に消息を絶っており、戦死したとも言われています)
インタビューによれば、彼は戦後、人目を避けるようにひっそりと暮らしていたのだそうです。そして、雑誌で、あの日、自分が発見し同僚が撃墜したのがサン・テグジュペリだと知ったといいます。
あの日撃墜した不思議な戦闘機に乗っていたという作家に興味を持った彼は、「星の王子さま」など彼の著作物を読みます。ヘーゲルは、慙愧の念にかられ、自分が「毒ヘビ」の役を果たした彼の最後について知っていることを伝えたい、と思ってインタビューに応じたと語っています。
「今でも忘れることが出来ません。撃墜される寸前、コクピットにいた人影は、振り向いたまま我々の方を見つめていました。私は大戦中、多くの敵機を撃墜しました。また、味方が撃ち落とされる光景も数え切れないほど見ました。あまりに多くのことがあって、人の死にすら鈍感でなければ戦い、生き残るための気持ちを維持することが出来ませんでした。だから、人の死を含めて多くのことを私は忘却の彼方へと追いやりました。逆に、何気ないことを覚えていることもあります。人の記憶が曖昧さと正確さと両方持っていることを私は知りました。でも、何故なのでしょうか。何気なく覚えている中に、あの不思議な機のことがあるのです。もはや逃れ難たいことを知って彼は自分の死を見つめていたのかも知れません。でも、もしかするとあの王子のように、自分の死によって、彼は自分のもっとも還りたかった場所へ行こうと思っていたのかも知れません。…私は、あるいは彼の希望をかなえたのかも知れません。だけど、私は知ったのです。彼の死によって。生きていれば素晴らしい小説や絵や音楽や発明や事業を作り出せたはずの人々が、もう永久にいなくなってしまったことを。」
サン・テグジュペリの死を惜しむ人々の間からは、彼が、あるいは死を望んでドイツ戦闘機の前に身を投げ出したのではないか、という憶測もありました。
しかし、これは死者に対する冒涜に近いのではないか、と私は考えます。
だから…だから私も、この逸話について、彼がどんな気持ちでこの世から去っていったのかを想像するのはやめようと思います。
ただ、無思慮に花を手折ってしまった人がその美しさを二度と愛でることが出来なくなったと知って悲しむように、自分が手にかけた人が、人にとって本当に大切なことを語った小さな童話の作者であることを知って悲しんだこと。
それが、もし本当だとしたら、私の心もわずかばかりでも慰められるのです。
童話の中のあの飛行士は、王子さまが還っていった夜空を見上げ、バラを大切にしていた王子さまを思って悲しみにくれたり、心配したり、喜んだりします。そして、その気持ちを理解してくれる人がいない寂しさをこう結んでいます。
そして、おとなたちは、それがどんなにだいじなことか、けっしてわかりっこないでしょう。
でも、同じ思いで失った人、失われた想いを悼む人が、そのとき、確かにそこにいたのです…
本当に大切なことは眼に見えないのだから、人はそれと知らずになくしてしまうのですね。
でも、だからこそ、人は眼に見えない心を思いやり、慈しみ、そして愛するのでしょう。人一倍愛に飢えていた、淋しがりやの作家は、きっとそのことを知っていたのだと思います。
「ねえ…ぼくの花…ぼく、あの花にしてやらなくちゃいけないことがあるんだ。ほんとに弱い花なんだよ。ほんとにむじゃきな花なんだよ。身のまもりといったら四つのちっぽけなトゲしか持っていない花なんだよ…」
この物語を締めくくるにあたり、私もささやかな祈りを捧げたいと思います。
遠い星空の彼方、人々の心の中の砂漠で、今なお小さなバラの花を愛し続けている彼の純粋な魂のために…
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