「痛いよ…。オレ、もうダメだ…」
「しっかりしろ。もうすぐだ!もうすぐ助けが来る…」

凄まじく吹き荒れる暴風雨。
フィリピンの海は、猛烈な低気圧に覆われていた。
そして、その荒れ狂う波間に、いま一隻の小さな漁船が揺れていた。
そのなかには、ケガで腕の砕けた少年が横たわり、老漁夫が必死に少年を励まし続けていた。

…彼らは台風の接近を知りながら、それでも魚を捕り続けていたのだ。
台風がやって来る!小さな漁船はそれでもギリギリまで操業を続けた。危険など百も承知だ。
だが、もう少し、もう少しだけ…。
彼等にはあまりにも高価で貴重な燃料を使い、一家総出でここまで来たのだ。水揚げまでは港に帰れない。
しかし、気がつくと彼らは襲い掛かる台風に飲み込まれていたのだった。
小さな漁船は木の葉のように波にもまれ、もてあそばれた。

「あっ、危ない!」

ドドーーン!

漁船にぶつかり崩れた巨大な波が、マストに張られた頑丈なはずのワイヤーロープを引きちぎる。
次の瞬間、鋼鉄のロープはまるでムチのようにうなりをあげて、そばにいた少年に襲いかかった。

「ああっ、腕が!腕が!」

老漁夫があわてて少年を抱き起こすと母親は悲鳴をあげた。
何ということだろう。
サメに噛みちぎられたように無残につぶれた少年の右腕。しかもひどい出血だ。
早く、何とかしなくては
その間にも、激しい雨は容赦なく船に襲いかかり、船は次第に浸水を始めた…

メーデー!メーデー!メーデー!


漁船の古びた無線機は懸命に救難信号を打ち続けた。
助けてください!船が沈みかかっています。重傷を負った少年がいます。
位置は東経○○度、北緯○○度…

 

 

 

−約束−

 

 

 

うら若いアメリカ人の女性パイロット、メイ・メイスンが飛行艇のコクピットで、その救難信号をキャッチしたのは気象観測飛行を終えて、基地に帰投しようとしたときだった。

「たいへんだわ!」

通信士のラッツはうなずくと、すぐに返信した。

了解、すぐ救助に向かう

彼らが乗っているのはカタリナPBY。翼に二つのエンジンを並べたアメリカの小さな飛行艇だ。
カタリナは、ひるむことなく嵐のなかへと突っ込んでゆく。
構造のもろい、軽飛行艇のカタリナはたちまち目茶苦茶な風にもまれ、激しい雨に叩きつけられた。
それでも彼らは引き返さない。
何をもおそれずに立ち向かう勇気こそ、彼らアメリカ人の誇りなのだ。
傷を負った若い生命を、陸の上に早く運ばなければ…



「しっかりしろ!もうすぐ助けが来るぞ…」

老人は少年を励ました。
だが、この激しい風雨の中を、本当に助けはやって来るのだろうか…?
一分一秒は、そのまま少年の流す血の一滴一滴だ。
まだか!まだか!


ゴオオオオ………


老人は耳を澄ませた。あれは海鳴りなのだろうか?
その音はどんどん大きくなる。

「!」

唐突に、巨大な影が漁船の真上を通り過ぎた。
見上げる視線に飛び込んできたのは紛れもない、合衆国を示す国旗、スター&ストライプス!

「おお、アメリカだ!アメリカの飛行機だ!」
「ここだ!ここだぞお!」

嵐の空へ、懸命に手を振る漁師たち。
カタリナは、その上空をぐるりと一周すると着水体勢に入った。
山のような大波すれすれに、風によろめきながら高度を落としてゆく飛行艇。一歩間違えれば海中という決死の着水だ。

ザザァーーン!

勇敢な彼らを神様は味方してくれたのか、着水は成功した!
自分より大きな波を何度も被りながらカタリナは沈みかかった漁船に機体を寄せた。
コクピットを開けて、メイは叫ぶ。

「さあ、早く乗って!」
「ああ、神様」

漁師たちは雨の混じった涙を流しながら思わず手をあわせた。
ありがとう。本当にありがとう
彼らの目には、彼女の姿がまるで海の女神、ネプチェーンのように見えた。
彼女は危険を顧みず、彼らを救うために、この嵐のなかをやって来たのだ。



しかし、彼らはこの嵐の海からもう一度飛び立たねばならない。
砕けた波は幾度となく翼を叩き、雨は容赦なく降りそそぐ。こんな最悪の状況で飛び立つなどまるで無茶だ。
だが、メイはエンジンを全開にすると、追い風に合わせてそっとフラップを立てた。

お願い、飛んで…

重い圧力にエンジンは喘ぎ、翼は震える。
だが、カタリナは海面を離れ、ふらふらと宙に浮いた。
それは、まるで神技のようだった。

(風に逆らっちゃいけない。そうっと吹かれるままに風の背中に乗るんだよ。メイがママに甘えるみたいにね…)

彼のいうとおりだわ。
メイは微笑んだ。
こんな嵐のなかでも、ふと、彼女は思い出す。
自分に、空を飛ぶ憧れを与えてくれた、ある少年のことを…。



飛行艇は嵐の海を再び飛び立った。
しかし、今や彼らは巨大な台風の真っ只中だ。
狂ったような風がたてる音は、まるで地獄への入り口を開けて待っている悪魔の笑い声のように聞こえる。カタリナの翼はそんな風に引きちぎられそうに、がたがたと激しく揺れた。
メイは計器を見て顔を曇らせた。
この強風から機体の飛行を維持するために、大量の燃料を使い過ぎている。

「まずいわ、このままだと基地まで戻れない…」

どうしたらいいのだろう?
操縦桿を握りしめる彼女の顔は今にも泣き出しそうだ。
メイは離水した時のことを思い出した。

「そうだわ、あのときのように上昇気流をつかまえて追い風に乗れば…」

だが、こんな目茶苦茶な風のなかで、果たして上手に風をつかまえられるだろうか。
それでも、彼女は必死にカタリナを操り、風に身を任せるようにして飛ぼうと試みた。
意地悪な乱気流に何度も遮られながら飛び続ける飛行艇。
通信士も、少年の母親も、老漁夫も、他の漁師たちも、飛行艇に乗っている者は今や眼をつぶり、必死に神に祈っている。

神様、神様、どうか私たちを、そしてこの子をお救い下さい…

その時、メイは思わぬ言葉を口にした。

「こんなとき、彼がいたら…」

そして、また風防ガラスの向こうに眼をやったとき。

おや?

彼女は、ふと目を凝らした。
目の前の雲に映っている黒い影。
今まで、彼女はそれを雲に映った飛行艇のシルエットだと思っていたのだ。
だが。
違う、あれはカタリナのシルエットじゃない。
あれは…あれはまさか!


そう思ったとき、幻のようなその影は、大きく身を躍らせてカタリナの目の前に姿を現わした。

「ゼロ…ゼロファイター!」

メイは目を見張った。
丸みを帯びた美しいグリーンの機体。白い縁取りも鮮やかな、赤い日の丸。
まぎれもない。それは零式艦上戦闘機。
太陽の帝国が日出づるときから落日の終焉を迎えるときまで、その誇りを守るために戦った戦闘機。
気高く、愚かでもあった誇りの為に最後まで戦い続けたその名前をメイも知っていた。

「でも、どうしてこんなところに…?」

日本の敗戦と共に、ゼロファイターは歴史から姿を消したはずだ。
なのに、どうして?
しかも、こんな嵐のなかを、一体何のために?
そこへ突然、横合いから突風が彼らを襲った。

「きゃっ!」

メイはあわてて操縦桿にしがみ付き、機体を立て直した。
だが、メイの前をゆく零戦は、軽く機体を揺らしただけで風を乗り切ってしまった。
そう、まるでどんな波をも軽々と乗りこなしてしまうベテランのサーファーのように。
通信士のラッツが怯えたような声をあげた。

「何だろう、あのジークは?まるで我々の様子をうかがっているみたいだ」

※ジーク:アメリカ人は零戦のことを戦時中このように呼んだ


メイはハッとして、零戦のコクピットにうつる人影を見つめた。

「まさか…あのコクピットにいるのは……」

瞬間、彼女の体の中を電流のような衝撃が走り抜けた。



彼だ!彼に違いない!

 

 

 



−−それは、今となってはもう遠い昔のこと。

彼は、日本の外国人居留地の外で私が唯一泊まった、とある山荘の家の子だった。
日本で外交官の仕事を終えたパパが帰国前の休暇に私を連れてあの家に来たとき、彼は片言の英語で私のことを「青い目のとても綺麗な女の子」と言ってくれたっけ…
ハンサムなのに、黒い瞳をクリクリして笑いかける、まるで天から降りてきたいたずら天使のような男の子。
毎日空ばかり見上げていて、そして驚くほど明日の天気や風の様子を正確に当ててしまう不思議な子だった。
私たち、すぐに仲良くなって、もしも空が飛べたなら…ってそんな夢の話ばかりして。
そのうち、彼のことがすっかり好きになってしまった私は、お別れのとき、とうとう「大きくなったらメイをお嫁さんにして」ってプロポーズしちゃったっけ…
あのとき、彼はこくんとうなずくとこう言ったのだった。

東風が吹くようになったら、いつかまたおいでよ。僕、いつまでも待ってるからさ…

それから十年。
長い戦争が終わって、私は再び日本を訪れ、そして知ったのだった。
爆弾を抱いた零戦と共に風になってしまった彼が、もう二度と戻らない人になってしまったことを…




私が風に乗ってやって来る前に、あなたはもう風になってしまったのね…

あのとき、泣きながらメイは思ったのだった。
もしかすると、風になった彼を忘れられず、その面影を求めて彼女は飛行士になったのかも知れない。
そして、いまメイは確かに感じていた。
そこに風になってしまったはずの彼がいることを。
彼女は目を閉じ、耳を澄ませてみた。

ああ、風が歌っている……
なつかしい彼の歌う、やさしい風のうたが…




カタリナは彼の機に導かれ、飛び続けた。
彼の乗った零戦は、まるでアンデス山脈の険しい気流を熟知して飛ぶコンドルのように突風や逆風を軽くいなし、巧みに追い風の気流を見つけ出す。
カタリナは、ほとんどエンジンの出力を上げることなく、風の流れのままに飛び続けた。
やがて。
気がつくと、メイの操縦するカタリナは、いつのまにか台風から抜け出していたのだった。

「おお、台風を突っ切ったぞ。我々は助かったんだ!」
「基地も病院ももうすぐだ!」

機内にどっと歓声が沸いた。
少年の生命は、きっと助かるだろう。

飛行艇が無事に台風を脱出したことを見届けると、やがて零戦は、まるで天に召しかえされるように高度を上げ、空高く上っていった。
コクピットから見上げると、その姿は次第に小さくなってゆき、そしてかすみのように消えてしまった。

「ありがとう…」

彼の消えた空をあおいで、そっとメイはつぶやいた。
その頬に、一筋の涙が細く伝っていた…。





「しかし、信じられんなぁ」

台風一過、抜けるような青空の下の飛行場。
少年の生命が助かった知らせを病院から聞いてほっとしていたメイに通信士のラッツが話しかけた。

「え?」
「あの嵐の空から帰ってこれたことさ、それに…」

口をつぐむラッツに、メイは彼が何を言おうとしたのか、すぐに分かった。
嵐の空に現われた幻のような戦闘機。

(あれは、我々やあの子を救うために、神様がお遣わしになったのだろうか…)

あの嵐の空でカタリナに乗り合わせた人々は、皆そう思ったのかも知れない。

だけど…メイはあのとき確かに感じたのだった。

遠い日の約束、風の天使を思わせる少年の面影…

しかし、彼女は思ったのだった。
それは誰にも言わずに自分の胸にだけ、しまっておこう、と。



東風が吹くようになったら、いつかまたおいでよ。僕、いつまでも待ってるからさ…



そう、あれは…約束だったのよ。

口にすることなく、メイはつぶやいて…

「?」

メイはふと、振り向いた。
彼女のブロンドの髪をなびかせて、吹きすぎていった小さな風


その風のなかに、懐かしい少年の笑い声を聞いたような、そんな気がして…


 

 

 

 

≪END≫


 

 


三菱零式艦上戦闘機 (零戦)

コンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇

 

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