・第6話「旅立ち」 作者 小美野
卵を額にはりつけたまま、凍り付いたように一点を見つめる大森の姿。
美由紀は怯えていた。
最初から気づいていた。
この生活が永遠に続くわけではないことを。
彼はここに来た当初から抜け殻のようだった。
何かから逃げて、疲れて、ようやく休める場所をみつけただけ...
心をどこかに置き忘れて、泣きながら探している、
まるで迷子の少年のような中年...
そんな大森を美由紀は放っておけなかった。
「あなたもあの人と同じなの?」 〜 BGM挿入「松山千春:恋」
美由紀は拓也のことを思い出していた。
一夏だけ輝いて、突然私の前からいなくなった男。
美由紀はもう拓也は死んだものと考えていた。
東京に流れ着き、ソフト会社のサッカー部で、
今もケツを出して輝き続けていることなど知る由もない。
「また繰り返すの? 男の人って...いつも...」
そんな不安を振り払うように、笑顔で美由紀は大森に問い掛けた。
「もう干物、乾いたかな?」
いつもの夜の情事の合図だ。
大森は心臓をわしづかみにされたような思いで美由紀の顔を見た。
彼女の笑顔は心なしか強ばっていた。
その瞳の奥には、はっきりとした決意が浮かんでいる。
「試しているのか? 美由紀...」
耐え切れずに大森は目をそらした。
今の自分に美由紀の強い意志と対峙する術はない。
大森の中で何かが渦巻いていた。
そう、もうその答えには少し前から気づいていた。
それを大森に認めさせなかったのは美由紀の存在に他ならない。
あの卵が額で砕けたときの感触...
ここでの生活を全て打ち消す程の、懐かしいあの感触...
認めたくはなかった。
素潜り漁で追い回す魚が、サッカーボールの代わりであることを。
そして美由紀の姿に、満美の面影をいつも重ねていたことを。
逃げるわけにはいかない。
大森は再び美由紀に目を向けた。
美由紀の真剣な思いに答えねばならない。
その思いが大森の口を動かした。
「今日は..天気が..悪かったから...」
「そう....」
美由紀はそう呟いたきり、何も言わずTVを見つめていた。
大森もそれに従った。
彼の中でどうすることもできない一つの思いが、はっきりと形を成してきていた。
翌朝、まだ暗いうちに大森は目を覚ました。
美由紀がいびきをかいているのを確認し、布団を抜け出した。
これ以上、美由紀に甘えるわけにはいかなかった。
別れは切り出せなかった。
美由紀の顔を見れば決心が鈍る。
頭の中で美由紀の顔が、声が、ぐるぐる回る。
「美由紀、美由紀...すまない、美由紀」
とめどもなく溢れる涙を拭いもせず、荷物をまとめ、家を出た。
「さよなら。 美由紀...」
「ピシャリ!」
玄関の扉が閉まる音を聞きながら、美由紀は大粒の涙で枕を濡らしていた。
「やっと帰る場所を思い出したのね、モリ〜...」
美由紀は無理にでも自分を納得させようとしていた。
自分は迷子の大森を拾って育てた母親だと...
男の子はいつか母のもとから巣立っていくものであるのだと...
「私って馬鹿ね...チョベリバ...」
おそらく東京の女子高生ならば、多摩在住の人間でさえ
もう使わないであろうという言葉が、悲しみの大きさを感じさせる。
それでもまだ涙を止めることはできなかった。
「さよなら、モリ〜... 忘れないわ...」