昔の御佐曽宇

昭和39年から47年まで、佐曽宇は中断されていた。

それまで、佐曽宇は青年団が行っていた。

明治には、南(日清社)・中(義勇社)・北(川北若連中)が1年交代で、

大正には、南・上・北・王地の4つの組織で、

昭和4年に大塚校長の提案で、再び3つの青年団組織で

行われるようになった。

ところが、水島工業地帯の発展により、

呼松の青年たちは漁場を失い、

物資の集散地であった港も水島港にその役目を奪われ、

青年団活動は満足にできなくなっていった。

そのうち、昭和42年、老朽化のため拝殿下の長床も取り壊されていった。

テントの所に長床があった。

 

では、昔の佐曽宇はどう行われていたか。

ともさんによると・・・・。


元旦、長床にある炉に、

午前4時頃、割木が積まれ、火が入れられる。

参拝してきた男たちが炉辺に集まる。

時々押し合いがおこるが、一度もこの中に落ちたものはありませんでした。

この割木は槙の木に限られ、

他の割木は絶対に使用されませんでした。

時間が来ると、当番の町内の青年は打つ準備にかかる。

酒肴が出されます。

岩壷から水が桶で運ばれ、

弓張り提灯に火が入る。

この提灯には、町内名が裏側には自分の名前がかかれ、

私物に等しいものでした。

さて、水を持って炉の火を消しに3・4名が突入します。

と同時に太鼓を運び込むもの2名と奏者1名。

そして、周りを取り囲んで守る者。

これが、打ち合わせであります。

いざ本番では、煙と水蒸気で何も見えなくなり、

押し合いはいっそう激しくなります。

弓張り提灯は何個も消えてなくなり、

手に弓だけ残ることも。

こうした中を、すばやく太鼓を長床の柱にくくりつけると、

奏者が太鼓を乱打しだします。

すると、それまでの騒がしさは一瞬にして静かになり、

奏者は明方にむかって唱え始めます。

唱えが終わる頃、夜が明けてきます。

めでたい元旦です。

唱えが終わると、また一押しします。

青年の引き上げは太鼓をたたきながら、

中老の伊勢音頭でかえったものです。

2日より洗米とお札を持って、

各戸を回り寸志をいただきます。

この寸志が青年団の活動費となり、

一部は花開きに使われました。


今は、拝殿で奏上だけ行われているが、

昔はずいぶんと激しい、気の荒い行事だったようだ。

 

当時は、奏上の出来不出来が呼松の1年の吉凶を左右されるとされ、

今以上に、奏者に選ばれた者の責任は重要であった。

もし、途中で文句を忘れたりすると、

長床で見守っている当番外の若者が野次を飛ばし、

押し合いが始まった。

実際に言葉に詰まった年があったが、

その年は鰆が大漁で、かえって「チンツマッテよかった。」と言われた。

ばちがなくなった年もあって、

奏上者は手でたたいたそうだ。

このように、上手に出来ないと、

みんなの前で恥をかかされるので、奏上者を選ぶのは大変だった。

 

@希望者を募集する。

Aいなければ、くじをひく。番号の若い者があたり。

B一番くじをひいたものが辞退するときは、賞金を添える。

 その賞金は二番くじをひいたものにあたえられる。

 二番くじが辞退するときは、さらに賞金を添え、

 次々に積み立てていく。

C最終引受人は積み立て賞金を全部受け取る。

のようなシステムだったが、

実際には息子の代わりに父親が奏上したり、

直前になって逃げたために、代役三人で奏上したこともあった。

昭和48年から再開されてからは、町内行事になり、

再び1丁目・2丁目・3丁目の当番活動となった。

平成4年に青壮年部ができ、

平成10年には呼松太鼓が結成され、

平成15年には、太鼓組曲「矢走舟」・「松韻響呼」も奉納されるようになった。

 

佐曽宇の伝統も、少しずつ形を変え、

次世代に受け継がれているのである。