熊野権現(熊野神社)

五流尊瀧院にある役小角
山伏として修験道を開いた役小角本人は、
699年、伊豆の大島に流されました。
修行によって不思議な術を使うようになり、
人々を惑わすというので、朝廷に訴えられたのです。
その弟子の義学たちも追い出され、
瀬戸内海をさまよっていたとき、
大きな斧をもった白髪の老人が、呼びかけました。
「熊野権現の神様、この先の林にとてもよい場所がありますよ。
どうぞおいでください。」
何度も呼びかけたのが,林の福岡山の神様で、
呼んで待ったところを【呼待】,後に【呼松】というようになりました。
今の王地権現がその場所だと言われています。
ここまで、前回話を進めました。
さて、役小角の弟子一行は、
神様の呼びかけに答えず、ここ呼松から上陸せず、
さらに児島に下り、下の町の石榴浜にあがり、
その記念に総願寺を建てました。

今は、倉敷市立琴浦西小学校横に石造宝塔が残っています。
これは、年号が彫ってあるものの中では、
茨城県大和村の祥光寺宝塔についで、2番目に古い、
大変貴重な宝塔で、岡山県の重要文化財にも指定されています。
(石造宝塔そのものが作られたのは鎌倉時代の1203年。)

宝塔の4面にはそれぞれ仏像が彫られており、
右面は阿弥陀如来、左面は釈迦如来と弥勒菩薩。
今でも,毎年「お日待ち」行事を行っています。
役小角の弟子一行は、熊野本宮権現の御神輿をかつぎ、
上の町、稗田を通って、やっと郷内の林につき、
御神輿を安置しました。
これが熊野権現です。
大勢の弟子達は、ここでそれぞれ別れて家を建てました。
5流8院12家といわれ、計25の数になりました。
(ちなみに一番弟子の義学は尊瀧院。)
748年、聖武天皇のときに、
ここ児島一帯は熊野権現の所有(荘園)になりました。
(役小角も3年程で誤解が解け、修験道そのものがが認められたのでした。)
一気に収入が増えた熊野権現は、
立派な寺院が建ち並ぶ、一大勢力になっていきます。
そして・・・・。
正御影供は、呼松の寺にも10年に1回順番がきますが
もともとは、弘法大師の命日の行事です。
それは、師の没後75年経った910年に行われた、
京都の東寺の壁面にかかれている師の絵に向かってお祈りしたのに始まります。
それから以後、京都の法会行事には莫大な費用がかかったのですが、
その大半を分担したのが、ここ児島の熊野権現でした。
それほどの財力があったということでしょう。
時は流れ1467年。
児島郷内の熊野権現はますますその勢力を増していくばかりでした。
ところが、京都では細川勝元と山名宗全が覇権争いをした応仁の乱。
10年間で、京都の大半は焼け野原となってしまいました。
ここ児島の熊野権現もご多分に漏れず、
組織が巨大になりすぎて、勢力争いが起き、
5院の中の一つ「覚王院」の円海が、西阿知に追い出されました。
どうも自己中心的な性格で、細川勝元の親戚であることを
鼻にかけた行動が多かったらしいのです。
ところが、腹の虫の収まらない円海は、
1468年、強風の3月20日を選び、
この日とばかりに、細川の兵を使って、
熊野権現の30以上の寺院に火をつけてしまいました。
瞬く間に火は燃え広がり、あたり一面を焼き尽くしてしまいました。
残ったのは石塔だけという有様でした。
呆然と立ち尽くす関係者の中で、
大願寺の天誉は、たった一人その場で、
熊野権現の再建に一生をかける覚悟を決めました。
そして、すぐに行動に移しました。
四国にわたり、権現様再建に必要な大きくて立派な材木を集める事にしたのです。
よし、これで何とか再建にめどが立ったと、心を躍らせたのは1487年。
1000本の木を集めるのに、19年の年月がたっていました。
(先の争いのため荘園は一気に減らされ、収入が不足していたので、
それは、大変だったでしょう。)
さて、明日は材木を対岸の児島に運ぼうと、海に浮かべて船待ちをしていた夜。
季節は8月のこと、台風が襲来。
何と言う運のなさ、あっという間に、
材木はとめていた縄を外れて、波間に消えてしまいました。
ああ、大願寺の天誉住僧の落胆振りはいかほどだったでしょう。