校歌


一 鴨が辻の 西ふもと
  入江の水に 影とめて
  風雪 ここに壱百年
  さやけきこころ なお今に
  望み励まん わが三福

二 水島なだに 生きぬきし
  海の男の よりどころ
  にいばりの地に 営々と
  父祖の築きし その意気の
  たくましさ継ぐ わが三福
  
三 山容日々に 変わるとも
  入江の堤 花乱れ
  新興の気の 炬と燃える
  今水島を 前にして
  胸はたかなる わが三福


よく校歌を歌った。(歌わされた。)
歌詞は難しいが、今でも全部歌える。

さて、新校舎に移ってある休みの日、
学校に遊びに行った。



まだ、ここに大きな家があって
よくボールが中に入って困った。
今思えば、家の方こそ迷惑だったろう。


しばらく、運動場の遊具で遊んでいると、
職員室の玄関から、誰かが呼んでいる。
近づいていくと、校長先生だった。
校長先生はにこにこしながら、
校長室へ我々5人を呼び入れた。
しばらく、話をしたのだが、
内容は覚えていない。
すわったソファーがふかふかだったことと、
校長先生が我々のことをよく知っていたことを覚えている。


姉が6年生のとき、
校長先生は、卒業生一人一人の似顔絵を
色紙に描いて卒業記念品とした。
よく似ていた。

その浅野校長先生が、校歌の作詞者。

姉は小学校の合唱団に入っていた。
コンクールにもたびたび出場し、
数々の賞を総なめしていた。
東京に行って、ソノシートまで作っていた。
(レコードの薄いもの、よく雑誌の付録についていた。)

私も高学年になると、合唱団に入った。
夏休み、新しい音楽室でよく練習した。
ピアノは呼松の森先生だった。
練習は厳しかった。
私は音がよくはずれた。(のだろう。)
大きな声で歌うとやり直しが多かった。
遠慮して歌うとOKが出た。
(私の声は自己主張が強すぎたのだろう。)
一人一人でも歌わされた。
それまで、うんうんうなずいていた先生は、
私の番になると無表情になった。


その音楽の先生は、退職されて、
今でも、元気にいろいろな小学校で指導されている。

その河合先生が、校歌の作曲者。


さて、校長先生も去り、
我々も卒業し、
音楽の河合先生も去り、
体育館も完成した年、
大阪から転勤してきたのが、A先生。
「私は音楽はしません。
 そのかわり、水泳で三福を県下一にします。」
PTAの前で、宣言する。

A先生は三福で公約を守ったばかりか、
転勤した葦高小でも伊藤兄弟をオリンピック選手に育てる。


昭和46年に日本水泳連盟から水泳優秀校に選ばれた
記念碑。呼松の岩が使用されている。