続・水島大空襲
2004年 11月 13日、水島公民館亀島分館で、
水島大空襲の講演とフィールドワークが行われた。
講師は福田史談会会長の高橋彪氏。
最初に東塚・南畝の被爆の様子の話があった。

その後、参加者30人足らずと、
三菱水島航空機製作所亀島山地下工場の中と、
東塚・南畝の爆弾投下地点を見学した。
亀島山西
昭和20年4月25日にB29一機による
亀島住宅や大林組飯場をねらった攻撃で、
死者9名重軽傷者39名を数えた。
M69爆弾という焼夷弾で直径20mもの穴が地面に開いたという。
12日にも水島航空機製作所が被爆しており、
いそいで重要機械の疎開が始まった。
半分はここ亀島山の地下工場。
〔残りは倉敷の御船工場と倉敷工業高校。〕
2〜4トンもする機械は工場からトンネル入り口まで
鉄板をしき廃油をまきコロとロープで運ばれていった。
入口
大急ぎで決定したもので、
トンネル工事には朝鮮人を含む多くの労働者が動員され、
総延長2055mにも及ぶトンネル群が掘り進められた。

亀島山は花崗岩質でしっかりしており、
素掘りのままでよかったが、
砂礫が上からたえずぼろぼろ落ち、
足元はしみでる地下水で水溜りになっていた。

昭和20年6月22日の水島大空襲の後も、
この亀島山地下工場「亀」や
竜の口の地下工場「鶴」や
浦田の半地下工場「松」で、
終戦まで航空機が生産されていた。

午前8時36分、アメリカの第314航空団の第1波攻撃のB29から投下された爆弾は、
ここ東塚の現・「備南車両」付近に落とされた。
第一福田小学校沿革史には、
「6月22日、東塚、南畝、北畝、水島工場方面空襲、爆弾投下される。」
とある。
爆心地
当時、松江に住んでいた西山正子さんは、
倉敷航空隊建設のため、
昭和19年2月5日、立ち退きを言い渡され、
3月21日中畝に丸太とわら屋根の臨時の家を作る。
3月27日には主人肇さんに召集令状が届き、
下津井電鉄福田駅から出兵した。
4歳になる長女直子の足ではねんねん坂は無理だろうと、
正子さんの母亀野さんと直子は広江までしか見送れなかった。
田畑も同時に失った西山さんは、
知り合いの土地を借り小麦を作った。
学校の運動場を畑にして、いもを植えていた時代である。
昭和20年6月22日、刈り取った小麦の脱穀作業日をこの日に延ばした。
理由は、三菱水島工場の月2回の公休日であり、
手伝い人が頼みやすかったからだ。
その朝、西山さんの父とおばさんは先に広江見通しを通って田に向かった。
「ついて行く。」とせがまれた母亀野さんは、
広い道の方が直子には安全だろうと産業道路沿いに田に向かった。
一緒に行っていれば悲劇も起こらなかった。
そして、運命の8時36分。
広江の山からB29の編隊があらわれた。
とても大きな音がした。
西山さんはその時、まだ丸太小屋の中にいた。
西山さんと近所の人たちは近くの安全な畑に逃げ込んだ。
広江を歩いていた父と手伝いのおばさんたちは近くの防空壕に逃げ込んだ。
そのまま、恐怖の1時間半。
父とおばさんたちは無事家に帰ってきたが、
母と長女がいくら待っても姿を見せない。
いてもたってもいられなくなった西山さんは、田に向かう。
足は自然と速くなる。
「お宅のお母さんが気の毒なことになりました。」
その道の途中で声をかけられた。
夢中で駆け出す。
現場に着くと、
警察官や近所の人たちが集まっていた。
爆弾が破裂して吹き上げた土の中に足の指先が見えたので
夢中で掘り起こすと、西山亀野さんだったとの説明。
爆弾の破片は亀野さんの右胸から頭部を通っていた。
片腕は近くの溝で発見された。
「子供が一緒だったんです。近くに子供がいるはずです。」
と西山さんが叫ぶ。
近所の人たちが、一生懸命掘り探す。
亀野さんと並んだ位置に子供の遺体があった。
子供は亀野さんが抱きしめていたらしく、
後頭部はもぎとられていたが、顔は無事だった。
西山さんは驚きのあまり、
その日は涙が出なかった。
市内の小学6年生が平和学習の一環で、
このときの様子を西山さんに聞いた。
「広島や長崎で平和の学習をしますが、
肉親を失った者の悲しみは深く、みな一緒です。
あの日のことは一生忘れることができません。」

松尾一二美〔17〕さんは、
麦刈りの手伝いをしている最中に空襲警報を聞いた。
すぐ電信柱下にあった防空壕に逃げ込んだ。
その防空壕から頭を出したところに爆弾の破片が飛んできた。
この他、小麦を脱穀していた小寺時子〔17〕さんは、
布団をかぶれと家族に指示し、
押入れの布団を出しているときに被弾した。
また、塩津家に子守に来ていた実妹の塩津澄子〔22〕さんは、
子供を背負って正座したまま犠牲になった。
子供は無事だった。
東鉄前
南畝も被弾しており、その爆撃の様子の話も生々しい。
まだ、その部品や家屋が残っているところもある。
「水島大空襲」のともさんから空襲の話を聞いたとき、
ともさんはB29の燃料タンクの一部を手にしていた。