頼仁親王とは
地名のいわれ、生姫島で名前の出てきた頼仁親王とは、
いったいどんな人なのでしょうか。
それには、まず、その頃の様子を・・・。
父、後鳥羽上皇は1179年に生まれ、
わずか4歳で天皇の位についた。
蹴鞠、琵琶や筝・笛の演奏はもちろん、
水練・相撲・射芸なんでもたしなむ、
帝王の資質に恵まれた人物だった。
19歳になると首都京都で院政を始めた。
源頼朝は1192年、征夷大将軍となり、鎌倉で幕府を開いた。
頼朝は弟の義経をかまったと奥州藤原氏を攻め
いよいよ政治の実権をにぎろうと足固めをしていた。
:ところが、頼朝には時間が残されていなかった。
没。
その後、御家人の仲間割れが続き、二人の子供も暗殺された。
三代将軍実朝は自分の甥に殺されるのだが、
実朝の嫁と後鳥羽上皇の嫁は実の姉妹であって、
後鳥羽上皇と実朝は親戚関係にあった。
そこで、実朝が死んだ後、
四代将軍に後鳥羽上皇の三男の頼仁親王はどうかという話が出た。
ところが、後鳥羽上皇は、
頼仁が将軍で長男が天皇となっては、
将軍よりも天皇の方がずっとえらいという建前が崩れると考え、
断った。
さて、幕府内のごたごたに乗じて、武士を倒してしまえ。
と帝王後鳥羽上皇は決意した。
比叡山の武力も味方に引き入れ意気が上がる。
一方、幕府では朝廷と正面から戦うのは
大変な戸惑いがあった。
ここで行われたのが、頼朝の妻・政子の演説。
「京都の守りを3年から半年に縮めてくださったのは頼朝殿のおかげじゃ。
そのご恩を忘れて京方につくか、将軍にご奉公するかここではっきり言い切ってみよ。」

政子のアピールに、御家人は涙を流して結束を誓った。
この5月19日の時点ですでに勝敗は決まっていた。
鎌倉方はすばやく攻撃を開始し、6月15日にはあっけなく降参させた。
この承久の乱により、幕府と京都との関係は変わった。
後鳥羽上皇は、隠岐に配流。
順徳上皇は佐渡。
土御門上皇は土佐。
後鳥羽上皇の長男は但馬。
そして三男頼仁親王はここ備前児島へ。