福田新開

福田新田干拓から50年、
高梁川の運んでくる土砂の量は多大で、
河口中央部に大きな川中州ができ、
〔高塚原・たかつかがはらと呼ばれていた。〕
周辺の福田・福田新田・連島・大江村から農民が舟でやってきて
畑作を行うようになった。
1779年、時の奉行倉敷代官は流作地として検地、
冥加金として取り立てるようになった。

しかし、大水が起きると中州は流され作付面積も減少する。
どうせなら干拓して、土地を増やして陸続きにしたい。
と考えるのは自然であろう。
福田・広江・福田新田・そして呼松名主玉市兵衛は、
岡山藩御役所に訴状を出し、
1789年4月、高塚原に榜示竹を数百本立てて、
干拓工事に着手しようとした。
これを知った上流25カ村は猛反発。
福田新田1725年完成の折、
「もう新規の開発はしません。」
との取替証文を交わしていたからだ。

上流25カ村は江戸評定所に訴え、裁判になったが、
呼松4村はあらかじめもめることも想定し、
江戸の裁判の諸費の分担も決めていた。
しかし、1793年、「取替証文」が決めてとなり、
上流25カ村の勝訴。
以後、干拓の話は御法度となる。


時は流れ、高塚原はますます広がっていく。
1820年、福田新田の農民は今度は倉敷代官所へ
「高塚原の年貢の納税を守るのには、
丈夫な堤防が必要ですが、
上郷からの反対があってできません。
御公儀の御威光で工事をさせてください。」
と申し出た。
代官所も年貢が減ると困るので、
1834年代官ら一行が高塚原の見分を行った。

翌年には黒石の大庄屋永山利右衛門ら8名が
郡奉行・郡目付役に、
「・700町あまりの干拓地ができる。
 ・酒津の水別れから用水を確保したい。
 ・しかし、日照りになると水が流れてこないので畑作がよい。
 ・西側は大海の波が当たるので石垣で丈夫にしないといけない。
 ・しばらくは地味か゛安定しないので免税期間を設けてほしい。」
との意見書を差し出した。

よくできた意見書だったので、
岡山藩は新開計画を幕府に提出した。
1839年4月、江戸の勘定奉行から見分使ら21名が実際にやってきた。
〔岡山藩の郡代や料理人・医者・絵図師等を含めると120人を超えた。〕
ところが、これを待ち受けていたのは、
上流の57カ村の反対運動であった。
何日間もの宿と食事の負担をした福田新田農家であったが、
その甲斐もなく、
勘定奉行は岡山藩に対し、
新開は見合わせ、堤の築きはすべて中止するよう申し渡した。



--児島郡福田新田沖付洲御新開御見論見場所御分間其見取絵図--
--1839年作 原図は日笠文書--


  この天保の時代、幕府は悪貨を発行し将軍や大奥の生活は華美になり、
  庶民文化の花が咲いていたが、
  6年間に及ぶ大飢饉が起こり、
  年貢収入は享保以来120年間で最低を記録、
  百姓一揆や打ちこわしが多発した。
  そこで、40の働き盛り・老中水野越前守忠邦は
  質素倹約・経費削減・汚職防止に乗り出す。
  都市に出てきた農民を村に返し、稲作を強制。
  株仲間を解散させ、江戸と大坂周辺の土地を全部幕府の直轄地に。
  芝居小屋を郊外に、寄席も閉鎖し庶民の娯楽を制限。
  違反者を取り締まるため市中に隠密を放ち、
  違反を摘発しては、厳罰に処した。
  将軍家慶の年に一度の楽しみ、芽ショウガの初物も取り上げた。

  こういう厳しい政策が時の世の現実に合うものではなく、
  物価はますます上がり、2年で改革は失敗、
  水野忠邦も失脚してしまう。
  幕府の元役人の大塩平八郎が幕府に武力で反抗したり、
  ロシアやイギリスの外国船がたびたびやってきて社会不安は高まっていた。
  ペリーが来航する前にイギリスのフェートン号が
  長崎出島のオランダ商館員を人質にとり長崎奉行に
  「薪水をださないと市中を焼き払うぞ。」
  と脅迫事件も起こしている。



話を元に戻して、
ここで立ち上がったのが、
児島柳田村名主・篠井汲五平である。
汲五平は八軒屋大吉と天城村足蔵と相談し、
岡山藩郡奉行・郡目付に新開の請負を申し出た。
しかし、ここでも川上と連島の26村が干拓を許可しないように
倉敷代官所に願い出たので、
高山又蔵倉敷代官は実地見分を実施、
その結果を関係者に諮問して、
1841年、川上側が納得のいくように申合協定書を作った。
  ・完成した折には堤防修理手当てとして30町歩を差し出す。
  ・手当金1000両を提供する。
  ・連島が使っている高塚原の代わりの土地を提供する。
  ・連島・西阿知の堤防を強固にする。
  以上が守れるなら干拓してもよい。


これをうけ岡山藩は幕府に出願して、
先の申し渡しをくつがえす干拓の許可を得て、
1845年、汲五平に干拓GOサインを与えた。

いよいよ工事の着工となったが、
今の北畝・中畝までは川中州のため工事は予定通り進んだか゛、
今のやよい駅から板敷までの西堤防と、
そこから王島山を通って呼松までの南堤防は海面であり、
何度も破損し、気がつけば2年もの時が経過していた。
堤防を作る技術が未熟なこともあったが、
資金難のため一時的な間に合わせの堤防を築いたため、
すぐ決壊し、余計に費用がかかったのである。
そのため、できあがった干拓地をすぐ売って金にしたうえ、
まだ完成していない開発地まで安売りして工事費にまわしてしまった。

1848年7月、汲五平は資金繰りに策つき、工事は中止。
8月になり、岡山藩は1851年までに完成すると幕府に約束していたので、
藩の中の指折りの分限者の野崎武左衛門に助けを求めた。
「野崎家の面目にかけて1年で潮止めを完成させましょう。」
と難工事を引き受けた器量人・武左衛門は
さっそく、8月25日に工事に着手した。
ところが、10月になり汲五平の資金のめどがつき、
藩に申し出ると、藩は武左衛門に工事の一時中止を命じている。
「やってくれと言われたから引き受けたのに・・・。」
と武左衛門は藩に工事の辞退を申し出て、
汲五平との間とも争いごとになった。
翌年3月になって三宅安太郎の調停で両者の和解が成立、
干拓地の取り分を決め、
以後は武左衛門が正式な築立方となった。


海を干拓して塩田をいくつも作っていた武左衛門は、
粘土と石灰を混ぜ合わせて固めた壁を芯にして、
白石島・豊島から船で運んだ大量の石と土で
丈夫な堤防を作る技術があった。
1851年2月、呼松・王島間の南堤防や西堤防を含む
すべての潮止め工事が完成する。

今も残る南堤防

新田誕生と喜んだのもつかの間、
まず、排水溝を作り塩をぬかなければならない。
新田内を碁盤型に耕地整理し、
用水路や道路を整備し、
板敷、王島、姫島に排水用の水門を新設した。

1852年5月には岡山藩の検地が行われ、
土地の様子によって、上田・中田・下田、上畑・中畑・下畑を判定し、
年貢の多少を決めた。
そして、1854年、取り決めに従って土地の分配が行われた。
汲五平330町歩、上流村67町歩、高塚原耕作者30町歩、
残り220町歩が武左衛門。


こうして着工から17年もの月日を費やした新田が完成。
新しくできた新田を福田新田と命名、
今までの福田新田は福田古新田と言うことになった。


綿花や甘蔗等を作りながら塩を抜いた新田は、
入植者の努力もあり、多収穫の見込める美田に変わっていく。

ところが、30年後の明治17年の高潮が、
一瞬にして福田新田を泥海にかえる。