漁網の変遷

漁業の始まりは、
太古の昔より概ね鉾やヤスを使った川漁に始まり、
釣りという漁法が盛んに行われたのは、
徳川三代将軍の時代であったとのこと。
時代が進むにつれて、漁法は釣りから網へと変わり、
漁場も川から海へと変わり、漁民も増えていった。
当時、網の原料は日本麻であった。
綿の栽培に適した我が岡山県でも、
明治年間、県南一帯は米に次ぐ植物として、
綿の栽培が盛んであった。
収穫後は各自手仕事で加工して綿糸を造り、
手織機にて綿布を造った。
これに着目した児島の住人、揮大紡翁により、
明治18年、児島下村(現在の下の町)に、
名称揮大紡績の設立を見る。
業績は軌道に乗り、繁栄を極めた。
原綿の買い付けは国内産だけでは不足し、
米綿買い付けを神戸の貿易商へと注文するほどであった。
これに後れること3年、
明治22年、倉敷紡績が設立された。
かくして、全国各地に綿紡業が設立され、
紡績王国を築くこととなる。
やがて、不況は一変して好況となり、
綿糸布の生産は紡績の輸出の一位となり、
紡績万能の世を迎える。
製品の綿糸は漁網界へと進出、
当時、漁網は家内工業で、
膨大な時間を費やして手編みされていた。
これに着目した邑久郡に住む森下氏は、
森下漁網を設立。
手編みの手間が省けるとあって、
漁師からの注文が殺到したが、
納期厳守で益々信用を得て、
繁栄を極め、今日の森下製網の基礎を築いた。
大正7年、手編み製網は自然消滅となるが、
その後も綿網全盛時代はしばらく続いた。
しかし、昭和35年、
化学繊維漁網の出現により、漁網界は一変した。
刺し網の大半は、
旧来の植物性漁網からビニロンやアミロン製の化繊網に代わり、
漁獲高は綿網の倍となる。
科学の進展に伴い、昭和60年、
化繊の研究は一段と進み、
テグス網が出現した。
テグス網の特徴として、網が透明で魚には見えないから、
昼の操業が可能となった。
アジロに集まる魚を潮流を利用し、
短時間で一網打尽。
しかも、旧来の植物性の網が約3年しか持たないのに比べ、
テグス網の耐久年月は10年と長く、
当時の漁師を驚かせた。