小野小町


「土佐日記」を書いた紀貫之が、
905年、それまでの歌人でベスト6を選んだ。
その六歌人は、
僧正編昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、大伴黒主、
それに、小野小町である。
百人一首にも選ばれている。

小野小町は、クレオパトラや楊貴妃と並ぶ、
大変な美人の代名詞として使われる。
今でもきれいな人を「岡山小町」とか「倉敷小町」ということがある。


その昔、深草少将という貴族が小町に惚れて、
「私とつきあってくれ。」
とお願いしたが、
「百日百夜、私のもとに通ってくれたら、
 願いをかなえましょう。」と答えたそうな。
深草少将は喜んで、
毎日毎晩、雨の日も風の日も通い続けた。
それほど情熱を傾ける価値のある、
絶世の美女だったらしい。

残念ながら深草少将は、
あと一日と迫った九十九日目に、
疲れのために息絶えてしまった。


この小野小町にはいろいろな言い伝えがある。
・深草少将の亡霊に、死んだ後も悩まされた。
・美人だけと、いやな性格だったので、
 年を取ったら誰からも相手にされなくなった。
・神職に専念するため、一生涯独身を通した。
・性同一障害だった。
・皮膚の病にとりつかれ、遠く離れた山て゛暮らした。

この小野小町に関する伝説は、
ここ倉敷にも伝わっている。

時は52代嵯峨天皇(808ー823)の平安時代。
都窪郡清音村の黒田を治める守護は、小野備中守常澄。
その娘として小野小町は、生まれた。
ある時、顔中にできものができる病気にかかり、
いろいろ手を尽くしたが、いっこうによくならない。
顔は女の命。
そこで、日間山にいる同族の小野春道を頼ってきた。

小野春道は法輪寺の薬師さまに願掛けをするよう進めた。



小町は、
「南無薬師衆病悉除の願ひ立て
 身より仏の名こそ惜しけれ」
とお祈りしては、毎日、裏の山中の井戸に自分の姿を映した。


そして、七日目の朝。
どこからか、
「村雨はただ一時のものぞかし
 己が身のかさそこに脱ぎおけ」
という返歌が聞こえてきた。

いそいで仁王堂の両側の松に
蓑と笠をかけると、
あら不思議、顔一面のできものはすっかり直っていた。


また、黒田の村の人たちが、
田植え時に蛭に手足の血を吸われて困っているのを見て、
「四方の峰流れ落ちくる五月雨の
 黒田の蛭祈りますらん」
という歌を神様に捧げたところ、
あら不思議、黒田の蛭は人に吸い付かなくなったそうな。


その後、小野小町は尼となり、穏やかな余生を送った。

小町山の頂に五輪の墓があったが、
ある時、天城に住む不届き者が、
この墓を盗もうと石に手をかけたとたん、
五輪の墓は空を飛び、
生まれた地・黒田に帰ったそうな。


これは、倉敷市役所東・船倉にできた、
「小町トンネル」