福田古新田の干拓

岡山藩では池田光政が積極的に推し進めて以来、
大規模な干拓は行われていなかった。
江戸初期に行われた干拓は、
未熟な治水技術のため、各地の川上でたびたび洪水を起こしていたからだ。



1716年〔享保元年〕、福田新田の計画が持ち上がった。
現・樋の輪の水門から福田南中学校を通って石屋谷に堤防を築き、
〔今はバスどおりになっている。〕
中に約百町歩の新田を作るというもの。
責任者は林村の大庄屋・佐藤九郎兵衛。
申し出先は岡山藩。
発案者は浦田、福田、広江、呼松、宇野津の村人。

ここで、疑問。
浦田、福田はすぐ前の海辺が土砂で広い州ができており、
牛を飼っていたり麦や野菜を作っていたので、
そこを堤防で囲み田にすればとても助かる。
だけど、なぜ広江、呼松、宇野津の三村も願い出たのか。

岡山藩資料集「備陽記」によると、当時は、
次のような状況だったらしい。

家数 人数 田畑 石高 一人当り
浦田 75軒 501人 24町9反 317.3石 1艘 0.633石
福田 71 483 29町5反 292.7 なし 0.606
広江 77 691 27町8反 393.0 7 0.569
呼松 87 692 10町3反 91.9 42 0.133
宇野津 31 261 9町9反 105.0 なし 0.402
341 2628 102町4反 1199.9 50 0.456


一番米の取れる浦田でも半分は年貢として取り上げられ、
一人一日あたり一合もない。
呼松はその1/5しかない。
そのかわり、呼松だけ船の所有が多い。

つまり、三村も入植して少しでも米の生産量を上げたいのはもちろん、
それまで、魚介類をとっていた福田沖が体積土砂でうもり、
漁業がふるわなくなった村人の願いがあったのだろう。


さて、干拓の願いを出してさっそく堤防の建設に着手したところ、
川上の西阿知、大江、中島、酒津、倉敷の村人が気づき、
連島の回向院で協議を行い、
佐藤九郎兵衛宅へ抗議をしに向かった。
「干拓を進めると排水がうまくいかず、
 我々川上の村々が洪水で迷惑する。
 すぐ工事はやめてほしい。」
  
しかし、
「我々児島五村は田地も少なく漁もできなくなっている。
 我々が生きていくために干拓は必要である。
 川上へは差し障りはない。」
と九郎兵衛は断った。

川上の村役人たちは、
十八村連名〔西阿知・連島・中島・酒津・安江・沖
・浜・倉敷・日吉庄・二子・五日市・宮崎・羽島・二日市
・加須山・亀山・有城・早島〕で江戸へ訴状を持っていくことにした。
倉敷には代官は不在、岡山藩は干拓に賛成の立場であったからだ。
   なにしろ、藩のほうも参勤交代の移動費用に加え、
   江戸の藩邸の維持管理費用もかさみ、
   家臣の給料カットを行わなければならないほどの財政悪化。
   新田開発となれば藩の財政が少しでも楽になるからだ。

川上側は、訴状を出したから工事を中止するよう、
再び九郎兵衛宅へ抗議したが、
九郎兵衛ははねつけた。


  この享保という時代は、
  幕府は鉱山収入が減少し、
  たびたびの江戸大火の再建費用がかさみ、
  また、ぜいたく・浪費生活のつけが一気に出て、
  赤字財政にあえいでいた。
  加えて1732年には江戸の三大飢饉の享保飢饉がおこり、
  西日本一帯にうんか害で12000人も餓死している。
  八代将軍〔あばれんぼう将軍〕吉宗は、
  倹約令や上げ米制をとり、必死で財政再建に努めた。
  年貢も今までの40%から50%に引き上げ、
  しかも出来高から毎年決まった量を収める定免法に変えた。
  米価も上げ、御家人や武士は助かったが、
  反対に、町人や貧しい人たちは米が買えなくなるものもいた。
  農民は豊作ならよいが、
  凶作の年が続き、生活に困ったものの中には
  田畑を手放して水のみ百姓になるものも多く出た。
  百姓一揆や打ちこわしが始まったのもこの時代である。


さて、話を元に戻して、
佐藤側と川上側双方が江戸に呼ばれた。
約3週間かけて駆けつけ、
享保2年1月13日、いよいよ裁判が始まる。
江戸評定所の朝は早い。
午前4時には呼び出しを受けるため待機しておかなければならない。
裁判官は大岡越前守のほか9名奉行。
絵図をもとに干拓予定地の状態を尋ね、
2月4日、時代劇でおなじみのお白洲で判決が下った。
当時の現在ある田の方を保護する幕府の方針どおり、
「干拓を中止し、築いた堤防を取り除くように。」
との裁きが出て、十八村側の勝訴となった。

干拓工事のために、村人たちはすでに家財を売り払って費用を作っている。
それに、50年もこの州で耕作しているが、川上に洪水のおきたことがない。
あまりにも理不尽な裁きではないか。
納得のいかない九郎兵衛は江戸に残って
追訴をすることにした。
しかし、そのやり方が当時の理にかなわなかったのか、
九郎兵衛はいったん牢屋に入れられてしまう。
その間、滞在費や裁判の費用のため多額の借金をした。

享保5年、今度は郡奉行に願い出た。
幕府は、
「地元で話し合うように。」
との言い渡し。

享保6年。
享保7年。
地元での話し合いはことごとく決裂。

粘り強く江戸で訴え続ける九郎兵衛の執念が実ったか、
享保8年4月11日、評定所で再審査が行われることになった。
「実際に現地を見てくだされば、
 川上に洪水が起きる心配のないことは一目瞭然です。
 十八村の百姓に聞いてもいいです。
 万一ご検分のおり私の言うことが偽りと判断されれば、
 私の身体をどのようにして下さってもかまいません。
 ここにその証文も書きました。
 十八村代表には証文は書けないはずです。
 なぜなら洪水が起きるというのは偽りだからです。」
と、九郎兵衛は町奉行に訴えた。


八代将軍吉宗に重用されていた大岡越前守は、
前回の新任間もない頃と違い、中心的に審議を進める立場にあった。
「新田開発は天下のためであるから
 どこの領地でも願い出があれば
 調べた上で許可することになった。
 水はけのことをよく調べた上で干拓堤防を作ることを許可する。
 〔十八村には〕国のためなのだから反対しないように。」
と前回とは反対の裁きを出した。
この頃から、幕府の方針が古田保護から、
新田開発をして年貢米の増産を図ることに転換したことが
大きな背景にあった。
実際、幕府の旗本・御家人の給米にも困っていたのである。
中には武具の質入をしたり、傘はり、提灯作りなどの内職、
博徒の用心棒などで稼がねばならない武士もいた。


こうして、晴れて干拓にゴーサイン。
九郎兵衛は生坂村石原茂市兵衛と共同で出資、
11月14日には汐止め堤を完成させた。
翌9年352ヘクタールの新田がついに完成。


ところが、九郎兵衛、この福田新田には移住せず、
78歳で没するまで林村でそれまでの莫大な
借金返済に追われ続けたのである。
佐藤家が福田新田に移ったのは、
新田完成から実に25年もの後であった。


さて、福田の村人と川上の村人との争いは、
「これにて、一件落着。」
となったのか。
・・・・・・
実は、福田新田の干拓が決まったとき、
上流の村々と「もうこれ以上開発はしません。」との
取替証文を交わしている。
それが元で、後にまたも争いがおきる。

今度は福田新開の干拓計画が持ち上がったのである。
福田新田より大規模で、高梁川そのものをなくそうというものである。