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まなかつお流瀬網漁
高知で4年間過ごした後、岡山に帰って来た。
「今日のおかずはかつおだ。」
と聞くと、
「よしっ。かつおのたたきか刺身が食べれるぞ。 にんにくはたっぷりと。」
と思ってわくわくした。
ところが、出てきたものは白身の淡白な切り身。
岡山でかつおといえば、
少しとぼけた顔のまながつおのことであった。

呼松漁村のもう一つの主漁種にまなかつおの流瀬網漁がある。
その数,16隻。
漁場は水島灘と香川県佐柳島周辺で,
毎年7月中旬〜8月末までの50日間,
佐柳島港へ駐留し漁に励み,
地元島民との親交を深め,島民同様の待遇をうけた。
佐柳島本村山頂の天満宮改築の際の,献金石柱に,
「呼松まなかつお網連中から金弐拾圓」
と刻まれているのを見ても,
いかに古くから交流があったかが分かる。
また,戦前から続いた入漁料制により,佐柳島へ献金していた。
漁区は島の南(現在の本船航路)で,広い海域で豊漁が続いた。
船団は毎日夕方6時ごろ港を出て,漁場に着くと各船とも網を入れ始める。
大漁を祈念して待つこと6時間,「ほら貝」の音を合図に網を上げ島へ集まる。
その中で一番の大漁船を「都船」と称して,他の船の漁獲を全部積み込み,
向地多度津市場へ三丁櫓で急ぐ。
かなりの重労働であった。
8月になると水揚げが減り,船団は漁場を水島灘へと移す。
この海域は浅口地区,寄島,乙島などからの打瀬網の出漁と一致し,
網の長いまなかつお漁にとっては強敵であった。
呼松のまなかつお漁は10年程操業したが,
当時は周辺漁組に同業者はなく,
鰆の流瀬網漁に劣らぬ水揚げがあった。
本荘高島には昼間操業の「かに」建網漁が12隻あり,
下津井では釣り,延べ縄,蛸壺漁などが大半を占めていた。
全盛期,下津井蛸の名声を広めた蛸壺漁は現在4隻に激減。
昭和45年頃からは下津井地区でも,
季節漁の鰆やまなかつお漁に転換した漁民も多い。
テグス漁の出現により,
昼間の操業が可能となり,
その上,目合縮小により,小型魚の乱獲が目立つ。
同業者間の操業の申し合わせが肝要。
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