太平洋戦争と召集令状
昭和13年、支那事変が勃発し、
戦域は支那大陸へと拡大され容易ならざる状況となる。
さらに、終結を待たずに3年後の12月8日、
第2次世界大戦が勃発した。
国内は再度戦時体制となり、
人材・物資の徴用は農漁村に大きな影響を与えた。
あの日も4世帯に召集令状(赤紙)が届いた。
噂はあっという間に村中に広まった。
年老いた父親と家族を残しての出征は、お国の為と諦めた。
2年後、戦域は南方群島までに及んだが、
戦況は悪く、日本守備兵は全滅との報せあり。
10月、航空権は米軍に独占され、
多くの戦死者が出て敗戦濃厚なのため、
これを補充するために11月になって大召集動員が下った。
もちろん、私や友人にも。
田中吉夫、大島辰夫両氏と共に岡山17師団へ入営、
当時35歳。
3日間訓練した後、医務室より呼び出し有り。
上官の前に9名の新兵が整列敬礼。
「諸君らは軍隊生活に耐えがたき体質のため、
帰郷を命ずる。銃後にありて国家の為に勉励せよ。」とのこと。
多くの村人に見送られて出征したものの、
不合格で帰郷とは残念、
村の人に合わす顔が無いと意気消沈。
やむを得ず帰郷し、謹慎中の我等に、
地元水島三菱重工業より徴用工の令状来たり、直ちに就職。
翌年に入るや入隊を共にした友人、
田中・大島の両君は南方の戦場に海上輸送中、
空爆により戦死との凶報か゛舞い込んだ。
両君に対し追悼の意を捧げた。
戦況は不利なれども、銃後の民の戦意喪失を食い止めるため、
中央の指示は、
「最後の勝利は我に有り、銃後の民も結束、奮起せよ。」
米兵の上陸必ずありとの噂が巷にあふれ、
不安が募る戦争末期。
三菱重工の学徒動員と女子挺身隊による
上陸応戦に向けての竹槍訓練が構内で続く。
徴用工の私に2度目の召集令が下る。
今度は佐世保海兵団からの召集であった。
前回の不合格があるため、
内心はまた即日帰郷との不安を抱いて入団身体検査にのぞむ。
結果は予想に反し合格。
直ちに軍港波止場に召集される。
配属はどの部隊か、また軍艦はどれかと思いきや、
乗艦は軍艦ではなくトロール漁船であった。
しかも、港内の米軍投棄の機雷の引上げ作業であった。
そして、戦局はいよいよ悪化し、
本土上陸も噂ではなくなり、ますます緊迫の度を増した。
国内の大都市は空爆により壊滅。
地元岡山、水島も空爆により破壊され、
国民の戦意喪失。
翌年6月沖縄大空襲、米軍上陸、大激戦となる。
県民上げての応戦もむなしく、30余万の生命を失う。
昭和20年8月6日、広島へ原子爆弾投下。
続けて8日に長崎へ。
両市は壊滅、悲惨なる状況は全世界に放送される。
長期にわたる大戦も、
日本軍の完敗で、8月15日をもって終戦となる。
私は、佐世保港でこの日を迎え、即日帰郷となる。