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38番札場 安楽院
呼松にある安楽院。 もとは王島山の北の鼻にあったらしく、 寺名は常光寺と言っていたらしい。 八幡様より先に呼松にわたって来たようである。 (松江の西山茂氏は、常光寺跡から瓶などが出たと話しておられた。) しかし、安永5年の大火により全焼し、 記録は残っていない。
児島88ケ所霊場の第38番札場でもある。
今から160年程前、 国分寺(備中都窪郡)、 西明院(児島郡粒江村)、 そして、吉祥山吉塔寺(児島市柳田)の、 人生も齢50を迎えた3人組の住職が集まって、 「この世のためになる立派な仕事をしよう。」 という話になった。 国分寺の住職は、 吉備路の備中国分寺・五重塔を再建した。 西明院の住職は、 金毘羅宮を勧請して、立派なお宮を造った。 さて、吉塔寺の住職・円明さんは、 他の二人のようにまわりの喜捨もいらず、 しかも、何百年も残る仕事をしようと考えた。 思いついたのが、児島に霊場を移すことだった。 そこで、まず四国の88ケ所を何回も巡拝して、 各寺の位置・距離・方角・道順を調査し、 児島に札所を設置していった。 縄時計で距離を測ったり、道しるべをつくったり、 橋をかけたりして、完成まで3年かかった。 ちょうど四国の10分の1の距離にした。 最初は誰も巡拝せず、 まわりから「きちがい坊主」と笑われた。 ところが、思いついてから10年続けていくうちに、 笑っていたものたちも円明さんと一緒に 巡礼の列に加わるようになった。 この、日数約7日、 距離にして約36里(140km)の 児島札場めぐりの発案者・円明さんは、 60歳でなくなられたが、 今も吉塔寺には、円明さんを祀った円明堂や、 自筆の標柱、それに、 児島88ケ所本願所があって、 お花の絶えたことがない。
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