補償

私の記憶がしっかりしている頃には、

もう水島港は今のように広く深かった。

すぐとなりの三菱自動車工場で作られた車が、

次々と大型船に積み込まれ、輸出されていった。

オーストラリアからは鉄鉱石を川崎製鉄に、

中東からは原油を満載したタンカーが、

三菱石油に忙しく行き来していた。

ここからは、本島に寄って丸亀に渡るフェリーがあった。

瀬戸大橋ができるまではここから、

最初は身一つで、

次は50ccの原付で、

最後は車で、高知大学まで行き来した。

丸亀から高知まで3時間はかかるので、

船上の1時間20分の休憩はありがたかった。

それが、今は橋と高速で1時間ちょっとで着いてしまう。

 

さて、同じ水島港を見ていても、感じることはずい分と違う。

 


 

昭和26年、県が漁民より漁場を買い上げ、

現在の水島港を建設した。

その時の条件として、

水島港内桟橋下は、

夜間に限り磯建網の操業を認めるという契約であった。

しかし異臭魚問題により、

港内漁業の禁止と、

水島港を特定港湾に定めるとの法的処置を実行すると県の通達があった。

以上2件の漁業補償及び振興資金として、

関係漁業組合に対し、

5億円が支払われることになった。

しかし、その補償対象の中に呼松の名前はなかった。

異臭魚被害の中心であったにもかかわらず、

なぜ補償の対象から除外されたのか理解に苦しむ。

結局、この補償金は下津井漁連が代表で受け取り、

現在も預金されていると聞く。

私が思うに、当時呼松は、

水島灘埋め立てに関する補償交渉が継続中であり、

交渉成立の時には組合は解散するとの前提条件があったため、

解散が目前の呼松への補償は無意味と思われたのであろうか。

しかし、あの時点では、

まだ交渉は継続中であり、

組合解散は決定しておらず、

県の組合台帳に呼松の名前は残っていたはず。

あるいは、水島灘埋め立て補償を受け、

その上、異臭漁の補償も受け取るのは、

二重取りであると判断されたのであろうか。

いずれにせよ、補償とは被害に対しての賠償であり、

被害が重なれば,その都度補償を要求するのは、

被害住民にとって当然のことではないだろうか。

事実,その後、西児島漁連では、

埋め立て補償の件の後に、

瀬戸大橋建設に関する補償も受けた実例もある。

呼松のあの時の除外は、

今考えても納得がいかない。

県当局の結論に至る審議の経過を明確にし、

納得のいく説明をと今でも思ってやまない。