|
|
残された遺跡2
広江1丁目の広江・浜遺跡のすぐ北の、 広江4丁目には6つの古墳がある。 (内ひとつは破壊消滅) 川鉄研修所のすぐ西側、 福田公園の東入り口のすぐ上で、 正式には三軒屋1〜6号墳と呼ばれている。 広江には他にも八番ラーメンのすぐ上に二つ古墳がある。 また、福田公園やライフパーク倉敷から種松山を見ると、 特別養護老人ホーム「のぞみ荘」があるが、 ここにも湾戸6・7号墳があった。 「あった」というのは7号墳は、 1997年2月13日〜22日の調査のあと、 ホームの建設用地となったからだ。
調査によると、 古墳は石室の高さ・幅が2メートル、長さ8メートルもある大型で、 倉敷市では、7.4メートルの児島阿津の琴海1号墳を抜いて、 9.3メートルの連島町茂浦2号墳について゛第二の大きさで、 中から、土師器、須恵器、鉄刀、鉄器、ガラス玉、耳環などが出てきた。 その内容から、古墳が作られた時代は6世紀後半で、 10世紀中ごろから11世紀前半には、 この石室を再利用していたと考えられている。 この湾戸の下から二福小学校にむけての道路沿いは、 湾戸遺跡と呼ばれている。 製塩のための土器類が多数出土している。 広江・浜遺跡と同様、 米作りよりも狩猟・採集を生活の中心としていた 古墳時代のものであろう。
「なぜ、米を炊く土器ではなく製塩土器だとわかるのでしょうか。」 ライフパーク倉敷・埋蔵文化財センターの 片岡弘至学芸員に質問した。 まず、縄文・弥生・古墳それぞれの時代の土器は、 形・色・手触りが全然違います。 古墳時代からは、それまでの野焼きと違って、 かまを使って高温で焼くようになりましたから、 土の中の釉薬成分がとけて青緑色が強いです。 もちろん耐久性が格段とアップしました。 須恵器ともいわれています。 ということで、色・手触りで、まず時代が特定できます。 次に使用目的ですが、 ただ単に入れ物として使ったのであれば、 ほぼ原形をとどめていますが、 塩を作るには濃い海水を ワイングラス(逆円錐)の形をした土器の中に入れて、 2日間火をたきっぱなしにしました。 いくら丈夫な土器といえども、 塩ができたあとはばらばらに壊れてしまいます。 つまり、一回しか使えない土器なのです。 それで、製塩土器が完全な姿で発掘されることは まずありません。 一度に30〜40個をかまどで炊くので、 製塩土器はいつも大量に見つかります。 数10センチから1メートルの層になっていることもあります。 ばらばらの破片がまとまって見つかれば、 これはもう製塩土器ということです。 参考までに、 奈良時代には税金のかわりに、 塩を納めてたようで、 「備前児島より塩一斗」と木に書かれた記録が 奈良の屋敷跡から発見されています。 これから後は、 鉄器や塩田方式で塩を作るようになっていくので 製塩土器はこの時代にしか作られていません。 実際に埋蔵文化財センターの展示室で、 実物を前にして説明していただいた。 大変わかりやすく、 とても勉強になりました。 縄文土器
弥生土器
古墳時代土器 |