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残された遺跡3
旧石器時代、瀬戸内海は陸地で、 マンモスが我が物顔で歩き回っていた。 (今でも漁師の網にかかったりする。 備讃瀬戸だけで1000個以上見つかっている。) 縄文時代になると、地球上の気温が4-5度上がり、 北・南極の氷が溶けて、海面が上がった。 その当時の海面はちょうど第二福田小学校横の、 「福田貝塚」のあたりであった。 この貝塚の貝類を ともさんや福田史談会のメンバーが検証した。 ともさんが呼松の海から採取した貝類と、 出土した縄文時代のそれと、 比べてみたのである。 すると、 呼松で俗に「ダメ」といわれる巻貝は ほとんどかわりがなかった。
(つまり、縄文時代から、 福田地方の人々はダメを食べつづけてきたのである。) はまぐりは現在のように横長ではなく 縄文はまぐりは円形であった。 接合部のでっぱりの長さが短くなったのが認められたのは、 山が16あるハイガイであった。
いずれも、2000年以上もかけて少しずつ変身させてきたのであった。 弥生時代を経て、古墳時代になると、 ここらあたりは農耕に適した土地が少なく、 かわりに製塩を中心に生活を営むことになる。 (三福小の広江・浜遺跡も同様) これが、いま墓地になっている湾戸遺跡である。 集団生活を送るようになると、 自ずとリーダーが誕生してくる。 そのリーダーの遺体が収められたのが古墳である。 福田貝塚のすぐ隣には古城池南古墳がある。 倉敷市で2番目に古い横穴式石室である。 それは、平成2年3月19日から5月10日の調査で判明した。 なぜ、その調査が行われたかというと、 古城池線の渋滞解消のための4車線化計画のためであった。 平成元年、古城池トンネルの東に新トンネルを掘る事は決まったが、 問題はその西側。 古墳のある南側の丘を削るか、 貝塚のある北側に高架をかけるか。 水島支所建設課と文化課との協議の結果、 古城池は農地用水も兼ねている関係もあって、 南側の丘を広げることに決定、 古墳は事前に発掘調査をして、 付近に移築保存をすることになった。
ところが、平成10年、工事が始まることになったとき、 改めて正確な測量をした結果、 設計を一部変更すれば、 古墳に影響がないことがわかり、 古城池南古墳はこの位置のまま保存されることとなった。 2002年夏、今は草が生い茂り、中の様子はわかりにくい。 しかし、縄文の時代から、 この福田の地に人が住み続けている事実に間違いはない。
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