明治維新長州藩奇兵隊

時は幕末。

倉敷の大橋家の養子になった敬之助。

代官所とつるんで利益を得ていた下津井屋の米買占めに憤る。

尊皇家に育ち、正義感の強い敬之助。


腐敗した幕藩体制はがまんならなかった。


代官所に訴え、下津井屋を入牢させたが、

代官が代わると、たちまち下津井屋は釈放された。

仕返しをおそれた敬之助。

倉敷を離れ、長州の第2奇兵隊に入隊した。

持ち前の技能でたちまち隊長に。


その間、下津井屋は誰かに襲われ、父子の首ははねられ、

家は焼き打ちに。


慶応2年(1866)4月。

大橋家の養子・敬之助改め立石孫一郎。


100余人の第2奇兵隊を率いて、


倉敷代官所を全焼させ、


宿直員11人を殺傷。


二夜宝福寺に宿泊し、


今度は佐幕派の浅尾陣屋を襲い、

20人を殺傷し占拠した。



さて、岡山や備中松山藩兵に追われる身になった100余人。

いろいろなルートを通って長州へ帰った。


その中の一グループが呼松へ。


当時は小溝より五軒屋南畝へながれる東高梁川。

takahasigawa.jpg (13234 バイト)

(倉敷市の小学校4年生社会科副読本)

それを下って、ここ呼松1丁目の田中家に山口に帰る船の手配を申し込んだ。

ぼろぼろの服に抜き身の槍をもった10人。

あまりにその姿が恐ろしく、ともさんのおじいさんは

にげてかえったそうな。

おじいさんはその時田中家に手習いにいっていたらしい。

船は馬場さんにたのんだ。

 

が、とちゅう、「腹が痛い。」というひとりの男がいた。

「海をのぞけ。」

リーダー格の人がその人にさけぶ。

一刀の元にその男の頭を切り捨てたという。

うめく声も許されない状況だったらしい。

 

「心配するな。船頭にはなにもせん。」

リーダー格の人は静かにいったそうな。

 

馬場さんは、この後、

呼松に帰って、すっかり興奮して、

会う人みんなに、この出来事を話した。

 

それから呼松では、無法な事をする人を

キヘイタイ(な人)

キヘエテイ(な人)

ケエテイ(な人)

と言うようになった。

(ともさんが中年の頃まで老人が使っていた。)

 

この奇兵隊が去った後、

岡山藩より安楽院へ軍勢を派遣してきた。

そのころ奇兵隊は山口へ。

しかし、とんでもない結末が・・・。

 

続きは、「長州第二奇兵隊の悲劇(倉敷暴動事件)」で。