樋の輪の石地蔵

 

明治17年8月25日、呼松の水門がこわれ、

福田地方が大被害をこうむったとき、

呼松港の船が、はるか樋の輪まで流されてきた。

 

さて、ここ福田公園の池の南端。

樋の輪の水門横に石地蔵がある。

 

享保8年、長年争いを続けていた古新田の干拓計画が和解し、

工事がいよいよ始まった。

そして、9月6日午前2時、

真夜中の汐止め工事は干潮だというので、

夜通しみんな働きどおしだった。

船の上から石や土を投げ下ろし、固める。

それをじっと見つめる長。

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突貫工事も終わり、

やれやれと一服しようかとすると、

仲間の二人がいない。

 

「堤防には人柱が必要じゃ。

誰になってもらおうかと思ったが、

みんなと違う

赤いふんどしをしていた二人に決めた。」

長が、厳かにみんなに告げた。

 

それ以来、ここ樋の輪、広江地区では

赤いふんどしをつけるものはいなくなったそうだ。

 

hinowa.jpg (19937 バイト)

 

二人の命は、石や土とともに、

今もこの下にねむっている。

 


以上が、私がともさんに聞いた赤ふん説であるが、
別の歴史家や「福田町誌」によると、
宇野津村の長兵衛と浦田村の仁三郎の二人が名乗り出た
という説もある。
〔この二人の名前がお地蔵様に記されている。〕

ところが、この言い伝えは双方とも違っていた。



実際の作業現場にいた名主から連絡を受けた
責任者・佐藤九郎兵衛はその日のうちに
岡山藩の人奉行に報告書を出してあった。

御注進
一 児島郡福田沖新田を浦田村、福田村、広江村、呼松村、宇野津村から
   働き手として、17人が6日朝の2時まで働いていたが、
   波が高くなってきたので平太舟で帰ろうとしたところ、
   北からの強風で転覆す。
   14人は助かったが、宇野津村の長兵衛〔44才〕と浦田村の仁三郎〔18才〕
   呼松村又蔵〔33才〕の3人は沈んでしまった。

そして、捜索の結果、翌7日、呼松村の又蔵の遺体だけ発見された。

ということで、珍しい男の人柱伝説は否定された。


なお、
犠牲になった三人の妻子には一反ずつ新田を与えた。
との佐藤九郎兵衛の「覚」が佐藤家で見つかった。



犠牲になった呼松村の又蔵や、長兵衛・仁三郎の子孫は今も古新田にいるはず。