呼松小学校
明治5年8月に出された学制を改める新しい法律によって、
ここ呼松にも、安楽院に呼松小学校が出来た。
明治26年、今の三福保育園がある所に移転。
名前も呼松尋常小学校に。
4年間学んだ後は松竹梅の高等小学校へ。
明治44年、第三福田尋常高等小学校となり、
7学級の学校にうまれかわる。

(下の写真、わかりにくいですが、真ん中は農作物ではなく、生徒たち。)

さて、ここから、ともさんの小学校生活。
入学したときは、広江の同級生小山君のおばあさんが、
大きな手ふりのリンを鳴らして時間を知らせていた。
しかし、ときどきずれることや忘れることもあったらしい。
(今はやりの、ノーチャイムはすでにここで行われていた!)
道路をはさんで、
上には職員室と続けて二教室、その中央から東に二教室。
元旦、紀元節、天長節には戸をはずして、
来賓は短剣さけ゛礼装で出席し、厳かに式も行われた。
(今はやりの、オープン教室はすでにここで行われていた!!)
下には五教室と実習田があり、五月には高等生が田植えをした。
他にも、実習畑ではいもうえがあり、秋には炊き込み御飯や
いものおやつがでた。
(今はやりの、総合的学習はすでにここで行われていた!!!)
小学校か終わると、すぐ社会に出るものが大半のなかで、
ともさん。
祖父母のおかげで高等に行くことが出来た。
ともさん、それだけの勉強はした。
暗いろうそくランプや石油ランプのもとで。
子守りや小遣い手仕事で、
途中から学校にいけない女の子もいた時代。
さて、ちょうどこのころ、
第一次世界大戦から帰ってきた、
児島の武内熊一さん。
軍服をヒントに学生服をつくることにした。
まったくの素人だったが、
寝る間も惜しんで勉強して、試作品がやっとできた。
問題は、それをどこにもっていくかだ。
「あなたのお姉さんが勤めている呼松の小学校に頼んでみたら。」
「そうじゃのう。呼松なら、わしの恩師もおる。」
このときの評判は、
着物が主流だった先生にも生徒にも今ひとつだったらしい。
もしかすると、ともさんも意見を述べたのかもしれない。
昭和の時代になり、
10年、2階建ての校舎を新築。
16年、第三福田国民学校に。
28年、倉敷市立第三福田小学校に。
そして、41年。広江76番地に新築移転。
このときは、生徒が机やいすをバケツリレーした。
新しい校舎には、防火扉や放送室があり、
廊下はコンクリートで、こけるといたかった。
家庭科室というのもあり、プールまであった。
黒板は黒ではなく緑色だった。
しかし、呼松の子どもたちに大きなカルチャーショックを与えたのは、
トイレが水洗になったことだった。