王島から呼松へ
人が住み始めたのは王島が先で、
呼松は、海岸一帯に松の木が生い茂り、
白く美しい海岸線でした。
ある日、王島の人たちに八幡様から、
「この島に住んでいたのでは後々のために悪いから、
一日も早く松の浦(呼松)にわたるように・・・・。」
というお知らせがありました。
「どうしたもんかな・・・。」
島の人々が相談していたところ、
今度は明神様の松の上に光が輝いて、
また同じお告げがありました。
島の人たちは恐れおののいてすぐに渡ることにしました。
中でも弥平というものが一番先に渡り、
田畑を開き始めました。
それから、弥平の家を『元屋』と呼ぶようになりました。
(元屋)
弥平はだんだん畑を広げて、
天王ケ崎まで行きましたが、
広江の方からも村人が南に畑を開いてきて、
とうとう境界線のことから争いになりました。
役人に願い出て検分してもらった結果、
弥平の開いた天王立岩までが呼松分となり、
それから北が広江分と決められました。
(天王立岩)
嘉暦元年(1326年)には王島の丸山にあった八幡宮も
呼松に移し、住民も一戸残らず呼松に移りました。
しかし、祖先のお墓はそのまま残したので、
毎年旧盆の7月15日には、お墓参りをしました。
このお墓参りの行事が「矢走舟」だったのです。