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遭難者を救え
お大師講では、いつもリーダー役だった真さんこと、田中真一さんの家は、 日曜雑貨店であった。 台所用品から食品、煙草、何でもそろった。 明日、図工があると足りなくなった絵の具やマジックを買いに行った。 裏に回ると、こった白壁で古いつくりである。
その通り、この田中家は江戸時代、9代にわたって庄屋をつとめ、 明治になっても、祖父の直治さんが村長をしていた旧家なのである。 古い記録や品物も残されている。 その中の古文書には、真さんの曾祖母の奥英さんの 慶応4年(1868)4月27日から約1ヶ月かかった「出雲大社参拝記」や、 江戸時代の検地帳、日記、福田新田干拓図など貴重な資料がたくさん保存されている。 今回は、明治10年から11年にかけての「漂流始末記」の顛末を。
-----------------サンケイ新聞 昭和58年6月11日 土曜日-----------------
明治時代、遭難地元漁民の窮状救え 地区ぐるみ芝居興行打つ 救助費など返還通告に団結 民家に貴重な記録 倉敷の呼松地区
漁民の遭難は地区全体の問題----。 倉敷市の郷土史研究グループ・福田史談会の桑田康信さん(46)はこのほど、 明治時代の倉敷市呼松地区では、 地域ぐるみでの芝居の興行などをして、 遭難救助費などをねん出していた事を突きとめた。 同市呼松町898、日用品商、田中真一さん(68)方に伝わる 「田中家文書」から解明したもので、 ≪共同扶助≫の記録は珍しく、 近代の漁民生活史の一端を物語るものとして注目されている。
田中家文書によると、芝居興行は明治11年6月21日から5日開催された、 演目は、現在の香川県三木郡の子供歌舞伎、 村中で遭難者を支援しての興行で、 当時の県令(県知事)高崎五六に対し、 「村中協議之上」として、戸長(村長)副村長らが連署、申請している。 漁船は明治10年12月26日、和歌山県串本沖で遭難した。 呼松地区の中田松吉、渡辺喜作、中村嘉吉の3人は 長さ4メートルほどの漁船で、同年10月に呼松港を出港、 串本町で1人の漁民を雇ってマグロやイカなどのはえなわ漁をしていて、 高波のため漁船が転覆した。 漁具、食料、帆など、一切が流失、中村嘉吉が死んだ。 残る3人は、のまず食わずで漂流。 6日後の明治11年1月1日朝、八丈島に漂着、 港の役人たちに救助された。 中田松吉らは、流刑人の島だった八丈島で厳しい取調べを受けた後、 東京府へ送られ、5月10日になって釈放、 5月28日に倉敷へ帰った。 しかし、この間の救助費や滞在、帰郷費などは 34円98銭7厘に上り、岡山県庁から、 7月10日までに上納せよとの通告。 漁船を八丈島で競売してやっと帰り着いた矢先の支払い命令だけに、 帰郷した2人にはとうてい支払いはできない。 そこで、村中が協議して考え出したのが芝居興行だった。 興行の結果は、あまりよくなかったらしい。 しかし、明治6年に備中国浅口郡柏島村の漁師が 和歌山県沖で遭難。 台湾に漂着したさいには、559円あまりの借金支払いをめぐって、 村長が「宅地や家財、農具まで売っても41円にしかならない。まってほしい。」 と、県令に訴えているだけにくらべると、 地区民の対応方法は大変な違い。 桑田さんは、 「呼松地区では≪共同扶助≫の考えが徹底していた」 と、みている。 |