白色五輪塔の謎

 

五輪塔・・・鎌倉時代の墓石。 

      工具が発達していないのでやわらかい石質が用いられた。

      盗掘や破壊をおそれ戒名や名前はいれていない。     

      鎌倉が始まりで1570年頃まで作られた。

gorintou.jpg (11558 バイト)王島にある五輪塔

 

大工として家を建てたりなおしたりしていたともさん。

呼松に白色の丸い大理石の塔が多いことに気がついた。

石垣や供養塔(中道の大師堂)になっているものもあり、

人骨と同時に多数出土した場所もある。

山陽道以南には少ないはずなのに、

なぜ、呼松に大量に在るのか。

「もしかしたら、水島源平合戦は呼松-王島間であったのではないか。

多量の人骨と五輪塔は、敗れた源氏の墓のあとではないのか。」

70才を過ぎてのともさんの研究テーマとなった。

 

王島にある、矢走船でまいる先祖の墓、船型手水鉢、大供養塔、

すべて、鎌倉時代につくられたものである。

また、カメラを片手に調査してみると、

呼松以外にも、宇野津、広江、湾戸、福田、下浦田、

船倉、西岡、中庄に点在することが分かった。

 

西岡行願院の住職の林氏にうかがうと、

この付近にない石碑(石灰石)が多くあり、

どこから持ってきたのか疑問に思っていた。

しかし、庭石ブームにより多量が盗難にあったとのこと。

古文書五輪塔から源氏(木曽勢)の本陣は、

ここ西岡ではないのかとともさんは考えた。

 


水島源平合戦改め呼松源平合戦


 

時は寿永2年、平家の大将、能登守教経、呼松・大日の森で

必勝祈願。船300隻、兵7000人。

対するは源氏大将木曽義仲、討手大将、矢田判官義清。

船100隻、兵5000-7000人。

閏10月1日、早朝より源氏、王島に上陸、荒神社を祭り戦勝祈願。

ほら貝の合図とともに、戦闘開始。

潮は北に流れ、満ち潮となり流れは早い。

さあ、これからだというとき、なんと太陽が黒くなり始めた。

不吉の印とたいそうあわてふためいたのは源氏。

山国育ちのゆえ、「日蝕」というものを知らない。

書物からあらかじめ知識を得ていたのは平家。

作戦通り王島の背後に船で回る。

前後にはさまれての攻撃に源氏総崩れとなる。

これより、海上戦となる。

海の戦いなら平家のもの。

平家、船を組み合わせて体当たり。

まずは、こぎ手を射る。

天候の異変と強い西風。

こぎ手がいない船は大ゆれ。

源氏は立つことも出来ず、ただ船にしがみつくのみ。

足をもがれたかにのごとく、どうすることもできない。

海に落ち、刀で斬られ、槍で突かれる。

命からがら呼松に上陸するも、勢いは平家にあり、たちまちやられる。

船ごと宇野津に逃げたものも同様。

広江、湾戸、福田、下浦田で全滅。

運良く一文字より五軒屋をまわって、

西岡までたどりついたのは、1000人もいなかった。

呼松の海岸に残ったのは、数え切れない源氏の兵の屍。

 

翌年、藤戸海峡を馬で渡り、

屋島に追い詰め、

壇ノ浦で滅亡させた源氏の唯一の負け戦。

 

長い戦いを終えた後、

関東御家人、掃除人を連れて着任戦場の始末。

名ある武者の死んだ場所には五輪塔をたてた。

雑兵小者はそのあたりに埋めた。

水死者は集めて埋葬した。

 


 

呼松に住み始めたのは、戦場掃除にきた御家人などではないか。

墓守として定住したのではないか。

故中原祥夫氏が鎌倉に住んでいた頃、

鎌倉の漁師町に行くと、

呼松に帰ったような気がしたらしい。

方言やアクセントがよく似ていたそうだ。

生姫島のひょうたんと杯の彫り物も、

このときの戦に関係があるのに違いない。