白色五輪塔の謎
五輪塔・・・鎌倉時代の墓石。
工具が発達していないのでやわらかい石質が用いられた。
盗掘や破壊をおそれ戒名や名前はいれていない。
鎌倉が始まりで1570年頃まで作られた。
王島にある五輪塔
大工として家を建てたりなおしたりしていたともさん。
呼松に白色の丸い大理石の塔が多いことに気がついた。
石垣や供養塔(中道の大師堂)になっているものもあり、
人骨と同時に多数出土した場所もある。
山陽道以南には少ないはずなのに、
なぜ、呼松に大量に在るのか。
「もしかしたら、水島源平合戦は呼松-王島間であったのではないか。
多量の人骨と五輪塔は、敗れた源氏の墓のあとではないのか。」
70才を過ぎてのともさんの研究テーマとなった。
王島にある、矢走船でまいる先祖の墓、船型手水鉢、大供養塔、
すべて、鎌倉時代につくられたものである。
また、カメラを片手に調査してみると、
呼松以外にも、宇野津、広江、湾戸、福田、下浦田、
船倉、西岡、中庄に点在することが分かった。
西岡行願院の住職の林氏にうかがうと、
この付近にない石碑(石灰石)が多くあり、
どこから持ってきたのか疑問に思っていた。
しかし、庭石ブームにより多量が盗難にあったとのこと。
古文書五輪塔から源氏(木曽勢)の本陣は、
ここ西岡ではないのかとともさんは考えた。
水島源平合戦改め呼松源平合戦
時は寿永2年、平家の大将、能登守教経、呼松・大日の森で
必勝祈願。船300隻、兵7000人。
対するは源氏大将木曽義仲、討手大将、矢田判官義清。
船100隻、兵5000-7000人。
閏10月1日、早朝より源氏、王島に上陸、荒神社を祭り戦勝祈願。
ほら貝の合図とともに、戦闘開始。
潮は北に流れ、満ち潮となり流れは早い。
さあ、これからだというとき、なんと太陽が黒くなり始めた。
不吉の印とたいそうあわてふためいたのは源氏。
山国育ちのゆえ、「日蝕」というものを知らない。
書物からあらかじめ知識を得ていたのは平家。
作戦通り王島の背後に船で回る。
前後にはさまれての攻撃に源氏総崩れとなる。
これより、海上戦となる。
海の戦いなら平家のもの。
平家、船を組み合わせて体当たり。
まずは、こぎ手を射る。
天候の異変と強い西風。
こぎ手がいない船は大ゆれ。
源氏は立つことも出来ず、ただ船にしがみつくのみ。
足をもがれたかにのごとく、どうすることもできない。
海に落ち、刀で斬られ、槍で突かれる。
命からがら呼松に上陸するも、勢いは平家にあり、たちまちやられる。
船ごと宇野津に逃げたものも同様。
広江、湾戸、福田、下浦田で全滅。
運良く一文字より五軒屋をまわって、
西岡までたどりついたのは、1000人もいなかった。
呼松の海岸に残ったのは、数え切れない源氏の兵の屍。
翌年、藤戸海峡を馬で渡り、
屋島に追い詰め、
壇ノ浦で滅亡させた源氏の唯一の負け戦。
長い戦いを終えた後、
関東御家人、掃除人を連れて着任戦場の始末。
名ある武者の死んだ場所には五輪塔をたてた。
雑兵小者はそのあたりに埋めた。
水死者は集めて埋葬した。
呼松に住み始めたのは、戦場掃除にきた御家人などではないか。
墓守として定住したのではないか。
故中原祥夫氏が鎌倉に住んでいた頃、
鎌倉の漁師町に行くと、
呼松に帰ったような気がしたらしい。
方言やアクセントがよく似ていたそうだ。
生姫島のひょうたんと杯の彫り物も、
このときの戦に関係があるのに違いない。