呼松の養殖貝

kakimuki.jpg (14579 バイト)

昭和6年 カキ打ち(殻を割り肉を取り出す)作業

児島郡 呼松・西崎養介場 --山陽新聞から--

 

妹尾の西崎氏が.、宇野津沖の潟の藻頭

(藻の生え始めたところ)あたりで藻貝の養殖を始めた。

小さな貝を仕入れて、干潟に入れ、約1年で出荷できるようにする。

これを揚げて、大南の加工場で煮る。

身を女の人がヘラのようなもので出す。

量によって賃金が支払われた。

途中から東潟に石を並べてカキの養殖も始めた。

不況になり、また、西崎氏も他界し、

親族の佐原さんが後を継いでやっていたが、

氏も思わしくなかったのかいつのまにかやめてしまった。

 


さて、上の写真の年、昭和6年4月2日には、

下津井漁民300余名が、

本島の漁業組合長宅を約1時間にわたり襲撃した。

いわゆる、「塩飽騒動」が起きている。

事件の発端はこうである。

本島・広島・与島・牛島・高見島・瀬居島・左柳島の塩飽諸島は

広大な漁業占有権をもっていたが、

下津井の漁民は狭い沖合しか持たないため、

江戸時代から塩飽の各村と協定して操業してきた。

明治に入ってもタコつぼなわ、エビこぎあみなどの免許は

塩飽側の組合長に香川県知事の許可を得てもらい、

タイ釣りは入漁料まで払っていた。

ところが、昭和5年。

本島の組合長から今後一切協定は破棄するとの事。

冬の間、メバルの一本釣りで何とか食いつなぎ、春のタイ釣り

タコつぼなわで暮らしている下津井漁民にとっては死活問題である。

なんども交渉するがいずれも決裂。

4月2日、下津井尋常小学校で大会を開いたが、

下津井組合長は、

「わしの力では、もうどうにもならん。」

と言って会場を出て行ってしまった。

残された漁民は酒を買いに走り、

「本島に行ってわしらが直接話をつけよう。」

と15隻の船に分乗し、直談判に向かった。

しかし、組合長が不在だったために、家財道具を壊し、

これを阻止しようとした人に暴行を加えた。

 

下津井の漁民が目の前に広がる海で、

自由に操業できないことから始まった悲劇であった。

                                  「世相おかやま」山陽新聞社 参考


呼松の漁船も、まだまだ人力の船が多く、

鰆流瀬網の漁師は毎日家には帰れず、

漁場に近い下津井を拠点として操業していたが、

やはり同じように香川県の許可書が必要であった。

しかし、全漁船分の枚数は無く、

無許可の船はたびたび県境で拿捕された。

 

満州事変も勃発したこの昭和6年。

これをきっかけに、船の機械化は一気に進み、

漁法も変わっていく。