田中義吉商店

 

田中家には、他にも古い絵地図が残っていた。

 


etizu.jpg (20929 バイト)山陽新聞 昭和59年

 

江戸時代の干拓で生まれた福田地区,

その干拓する前の古地図も発見されている。

 

たて1メートル20センチ,

横70センチで和紙に墨でかかれている。

現在,陸続きになっている王島山,生姫島などが

水島灘に浮かんでいる。

同地区の干拓後廃川になった東高梁川が

河口付近の同地区で幾筋もの水尾に分かれ,

三角州を形成している様子がよく分かるほか,

青色に彩色された水尾ごとに,

「しゃくつがい」「波戸鼻」「中がし」「傍示の下」

などの地名も記され,

高瀬舟か行き来したといわれる同地区の昔がしのばれる。

地図の製作時期について福田史談会は,

現在の福田町古新田地区のみが堤防で仕切られ,

農地になっていることから,

福田新田の干拓が計画された

天保年間(1830−1844)と推定。

「干拓計画を岡山藩に上申したときの絵図では」

とみている。

地図には,現在の中畝,南畝付近に大きな中州があったことや,

砂山と砂山の間を示す

「つがい」の地名が六ヶ所もみられることから,

現在は平たんな地形の同地区も,

遠浅の干潟だった江戸時代には,

かなり起伏のあった地形だったようすがありあり。

干拓後の区画整理で,

同地区にできた農地は碁盤の目のように区切られ,

い割,ろ割,は割・・・・,

一升,二升・・・・

などの地名に統一されてしまっただけに,

干拓以前の歴史を伝える古地図の発見に

同史談会のメンバーは大喜び。 

 


 

 

さて、時は明治17年。

ここ田中家は約20町歩の地主で質屋でもあった。

道路をはさんで土蔵造りの本家の家屋と、

倉(現田中薬局)が建っていた。

田中真一さんのおじいさん・直治さんは、

高潮の被災者を救うため、

倉を開けて、

むしろと何百俵の米を無償で放出した。

家財を投げ出しての行為は、

人々から大変喜ばれた。

しかし、直治の父・五一兵衛は、

「直治の性格では、家を守りきれない。」

商人の資質はないと判断し、

次男の藤平に本家を継がせ、

直治を分家させた。

その後、直治は呼松村の収入役として村政につとめた。

直治の息子・義吉(真さんのお父さん)は、

ここ呼松に商店を開いた。

「田中さんには明治17年の高潮のときは

 とてもお世話になった。

 田中さんの家のほうには足を向けては寝られん。」

と、呼松ばかりでなく、

福田新開の人々からも愛される店としておおいに栄えた。