明治17年の高潮

 

私の家も浸水したことがある。

高潮と台風が重なるというので、

消防団が水門のところに懸命に土俵を積み、

警戒にあたっていた。

この時、ともさんは役職を離れ、

余計な口出しをする立場になかったので、

私と一緒にただ見守るだけだった。

その時、初めてともさんから明治17年の高潮の様子を聞いた。

広江に「千人塚」ができる前である。

 meizi17-2.jpg (16905 バイト)現在の千人塚

meizi17-3.jpg (15993 バイト)まわりを地蔵様で囲まれている


高潮は旧暦7月より8月末頃までに起こる。

私たちは三福小から昼食に帰る時、

田中義吉商店の前からぞうりを脱ぎ、

着物のすそをからげて帰ることがよくあった。

これを「たのみ潮」といった。

旧盆の踊りの最中に、

大波戸で踊れなくなることもよくあった。

 

台風と高潮で一番被害が多かったのは、

明治17年に起きた惨害である。

板敷水門の西側、

王島と生姫島の中間、

生姫水門東の曲がり角、

呼松水門西の曲がり角、

の4ヶ所の決壊に福田新開は全滅し、

死者8百余名が樋の輪の山上に埋葬された。

今の千人塚がそれである。

この台風で、王地の[権現丸]という帆船が、

切れた堤防より打ち流されて、

広江の砂置場まで流れ着いていたという。

また,台風の後、後山に登り、

山を開墾し、畑とし、

耕作した家が7.8軒もあった。

 

児島稗田の石鎚さんに聞いた話。

「宇野津から稗田越しを登っての帰り道で、

 西を振り返ってみると、

 上水島の向こうの空で黒雲が乱れ飛んでいた。

 恐ろしい空模様が気になりながら帰ったが、

 朝になって、西の方が騒動になっていると聞いて、

 峠に登って見ると、

 福田新開一帯は一面泥海になっていた。」

meizi17-1.jpg (18695 バイト)福田一帯 中央は亀島山

私が、石鎚さんの家に「ミサキギリ」に行った時の話である。

「ミサキギリ」というのは、

死者の霊を祈祷師の体に依霊させて、

死者に「物語り」をさせ、

生前に残したおもいを聞いて成就させてやるもので、

死者に対する家族の思いやりの民俗行事の一つである。

私の母の一周忌、私の13の年のことである。

 

それから、ひとまわり過ぎ、25.6になった時に、

松江の広畑さん(64.5才)から聞いた話。

広畑さんの家は、水没はしたが流失はまぬがれた。

「板敷の大切れ」から流れ込んだ潮水と、

「松江の堤防切れ」から流れ込んだ潮水が、

ちょうど合流する場所にあったので、

激しい潮の流れを受けずにすんだ。

が、1丈余の高潮の中に孤立した家に、

みるみるうちに増水する高潮。

やむを得ず、屋根裏に逃れる。

しかし、潮水はますます迫ってくる。

もう逃げ場所がない。

広畑さんは、その時、鎌を持っていた。

急げ、急げ。

広畑さんは、草屋根を鎌で切り開き、

穴をあけて屋根の上に出て、

暴風雨にさらされながら、

台風の通過を神に祈りながら待ったという。

 

惨害後、他の草屋根の家からは、

何体も逃げ出すことのできなかった死体が見つかったそうだ。

広畑さんは、この経験から、

「高潮の時には、必ず鎌を忘れてはならない。」

と強調されていた。

家族全員無事で、なによりであった。

 


消防機庫から、水門の左手の満潮の海と、

右手の王地の川の水位を比べると、

かなり高低差がある。

確かにここから潮水が流れ込んだら

福田公園のあたりまで完全に水没してしまうに違いない。

しかし、3代目の水門は、

2代目が役に立たなかったので、

基礎からやり直し、その大きさも福田地方に安心感を与えている。

もし、また高潮と台風が来たなら、

前回同様、

水門より南の、低い地区だけが浸水するだけですむに違いない。