たこの一本釣り

小学校の時、たこつぼ漁に連れて行ってもらったことがあった。

漁師さんがたこつぼを引き上げると、

たこつぼの中から、

「なんだ、どうしたんだ。」

と驚いた顔をしてたこが出てくるのがおもしろかった。

たこは、独占欲が強く、いったんつぼを自分の家だと決めたら、

引き上げる時、揺れようが動こうが絶対出ない。

その習性を利用した漁。

それでは、後は松下さんの「たこの一本釣り」。

simotui7.jpg (20238 バイト)下津井港

 

下津井とたことはきっても切れない関係である。

このたこの一本釣り漁は親から子へ、

子から孫へと伝わり、一家を支えてきた。

その絆は、今もなお続いている。

漁場が近くえさ代が安価という理由で、

大正、昭和と百隻を超える漁船がいた。

漁獲期間は九月の産卵期以外は一年を通じて可能であり、

特に、十〜十二月が最盛期で、お祭りと重なり需要も多く、

漁民はこの時とばかり出漁する。

小学生の我が子を連れて出漁し、

釣りの極意を父から子へ伝授する。

親の役目としてたこ釣りの後継者を育てるとともに、

漁獲量の増加を狙った苦肉の策である。

こうした現状が漁師仲間に広がり、

小学校の欠席児童が増加し、

学校側は家庭訪問や父兄への面談で児童の登校を懇請する。

たこ釣りで一家を支える漁師としての立場と、

父親としての子供に対する愛情の狭間で、

父親は先生にやむを得ない実情を訴える。

これを聞いて返答に困り、無言で立ち去る先生を追いかけ、

その家の祖父までが、せめて、最盛期の十月だけでもと

欠席許可をお願いする。

学校側は欠席児童対策会議を開き、

議論は賛成反対と二分するが、最後は校長に一任となる。

熟慮の結果、学校側の回答として、

十月に限り欠席を認めるというものであった。

当時は、社会福祉関係の条例もなく、

不況も厳しく、物事すべてが家庭本位で、

教育は二の次であり、とりわけ漁村での教育心は低調であった。

当時の下津井小学校の校長、森金太氏の

教職をかけての苦渋の決断により、

昭和六年には児童の同船出漁により漁獲高は増加した。

その後、漁村の内情を把握するために、父兄との親交を深め、

学校と家庭との連携強化に力を注いだ結果、

児童の欠席は減少傾向をたどった。

たこの漁獲にはたこつぼ延縄漁がある。

大規模で漁獲量が多く、下津井たこの半数を占め、

一時期盛況を極めたが、

海底を長期にわたって独占し、

他の漁業の妨害となるため、一部を残して激減した。