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たくさんあった精米所
呼松には精米業者が多く、 明治の終り頃より機械によって米麦を精米するようになった。 昔は、唐臼で精白されていた。 呼松で最初に機械によってはじめたのが、 広江の三宅元吉さんで、王地で精米所を開業した。 蒸気エンジンで大きな車が二つ回っており、 直径40センチ位の蒸気道が二つあり、 この強いほうにいもなどを籠に入れて 吊るしておくと20分位でゆであがった。 弱いほうでは倍の時間がかかった。 秋には芋を蒸す籠が並んでおり、 番がくるのが待ち遠しかったようだ。 その後、この余った動力を利用して、 撚糸をはじめ、それより綿布を織るようになり、 三宅織布工場となった。 明治の終りにともさんがこの精米所に連れて行かれ、 あまりの大きな音に驚き、恐ろしかったそうだ。 その後、呼松には精米業者が次々とできた。 北之町の中原さん、
水門の山本さん、 戎町の田中茂さん、石原実代治さん、 南町の渡辺峰治さん、 王地の中田恵さん、中田伊作さんと数多く、 現在のように白米で売られてなかったため、 みんな利用していた。 その後、機械も進歩し、小型化して、 農家も自家用を使うようになった。 また、韓国より白米の80キロ入りの袋がくるようになり、 次第に精米をしなくなった。 昔は麦飯が主食で、半白(米5:麦5)が多く、 米7:麦3は上の部であった。 米飯は年に10回も炊けばよい方であり、 葬儀の手伝いに行っている人に会うと、 今日は米の飯にありついていると話していたそうだ。 ともさんが戦争に応召され、 その入隊を祝して赤飯を出してくれて 喜んでいたら高粱飯だったそうで、 これには、驚いたそうだ。 刑務所に入ることをくさい飯を食わすというが、 明治大正の頃は肥料として満州から輸入していた 豆粕を実際に混ぜていて本当にくさかったらしい。 精米によって出た糠は、 肥料や石鹸の代わりになった。 麦は食料として、その糠は鶏のえさとなり、 茎は麦幹サナダに組まれて、 一石三鳥の役を果たしていた。 ともさんが子供の頃は、 上の畑で雑穀がたくさん作られていた。 あわ、きび、とうきびなどでこれらが年末のもちとなった。 なかでもなつあわは色が白いので、 もちにすると白もちと大差ないため、 「婿だまし」と言われていた。 1年に2度の収穫があり、昔は常食にしていたらしい。 |