井戸と屋号

 

幕末の1866年4月15日、

長州第二奇兵隊は、敗走中のここ福田で幕府軍と一戦を交えた。

その折に奇兵隊の放ったミニエー銃の弾痕と弾が、

中畝の大師堂に残っていた。

(大師堂は壊されたが、弾は福田史談会が保存している。)

 

ここ呼松1丁目の田中五一兵衛宅に、

船の手配を頼みにきたグループは、

よっぽど切羽詰っていたのであろう、

船のめどがつくと、安心したのか、

急にのどの乾きを覚えたらしい。

この井戸の水を、

「これはおいしい。 この水はおいしい。」

と言いながら、

みんな、何杯も何杯も続けて飲んだそうだ。

 

ido.jpg (18687 バイト)

 

「かずちゃんよ。(私のこと)

 ここの井戸にはこういう話があるんじゃ。」

と、ともさんが私に教えてくれた奇兵隊のエピソード。

(ちなみに、、私も小学生の頃、よくこの井戸の水を飲みました。)

 


135年の月日が流れた2001年。

やはり桜が満開の4月。

その確証を得るため、

ホームページ「長州第二奇兵隊の悲劇」の管理者、

山口県の岡崎氏が呼松をたずねてこられた。

が、歓びの泉の正面玄関前の井戸がそれかと思われたようだ。

仕事の関係で案内ができなかったのが残念、

その2軒ほど南の家の井戸なのであった。

その岡崎氏、1丁目の人たちに聞き取り調査をしていると、

この呼松でまだ屋号が使われていることに感激されていた。

 

明治になるまでは、

みんな苗字はなかったわけで、

いろいろな屋号が普通に使われていた。

 

呼松も、

船の名を呼ぶ家、

地名をそのまま呼ぶ家、

「だんごやさん」のように商売名を呼ぶ家、

いろいろあった。

また、中道の高札所があったところは、札場と呼ばれた。

戎様が祭られていたはい松の近くをいざり松。

その松の先を松崎屋と呼んでいた。

 

しかし、屋号が平成の今も、そのまま使われている地域は珍しい。

歴史と良好な人間関係がないと続かない。

 

子ども会、青壮年部、婦人会、老人会。

1丁目、2丁目、3丁目。

太鼓、綱の会、鉄人隊。

いろいろな組織が、お互いにうまく機能し、

いつまでも、屋号が通用する呼松であり続けたい。