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天城藩と倉敷者
江戸時代、 王島山は元は呼松所有の土地であったが、 「天城藩の領有である。」 と天城藩が領有をたてに取り上げてしまった。 呼松には悪い土地しか残されなかった。 さらに、王島山番の役所も置かれ、 厳しく管理されるようになった。 ところが、外様のその天城藩の上を行くのが、 天領の倉敷藩(通称・クラシキモン)。 ともさんが子供のころ、 おじいさんに散々聞かされた。 「クラシキモンとけんかをするな。 ひどい目にあうぞ。」 江戸時代、直参のクラシキモン。 向こうが悪くて訴えても、 言文も通じないほど無法が通っていたらしい。 他の村に行っても権力をふるっていたらしい。 「クラシキモン」にはあまりよいニュアンスはなかった。
* 明治になる前に、 あまりの不正と横暴に立ち上がった奇兵隊は、 倉敷代官所を焼き討ちにし、 仲間のほう起を待ったが、果たせず、 一部は呼松の田中家から船で山口に向かった。 そのときに、たまたま, ともさんのおじいさんもその場にいた。 さて、天城藩の支配の影響を強く受けた広江では、 5人組政策の影響もあり、 かえって地元の結束は強くなった。 福江との水争いでも一致団結ぶりを示した。 なにしろ、広江以外から入って来た者は、 養子であろうと信用しなかった。 隣の家に来た養子でも、 我が家の縁先までしか入れなかったと言う。 * 今は団地や新興住宅地が入り混じり、 まったくそういうことはない。 お上の言う事には、全面的に従う。 日本には、そういう時代が長く続いた。 |