天城藩と倉敷者

 

江戸時代、

王島山は元は呼松所有の土地であったが、

「天城藩の領有である。」

と天城藩が領有をたてに取り上げてしまった。

呼松には悪い土地しか残されなかった。

さらに、王島山番の役所も置かれ、

厳しく管理されるようになった。

 

ところが、外様のその天城藩の上を行くのが、

天領の倉敷藩(通称・クラシキモン)。

ともさんが子供のころ、

おじいさんに散々聞かされた。

「クラシキモンとけんかをするな。

 ひどい目にあうぞ。」

江戸時代、直参のクラシキモン。

向こうが悪くて訴えても、

言文も通じないほど無法が通っていたらしい。

他の村に行っても権力をふるっていたらしい。

「クラシキモン」にはあまりよいニュアンスはなかった。

 

kurasiki.jpg (25758 バイト)天領だった美観地区

 

* 明治になる前に、

あまりの不正と横暴に立ち上がった奇兵隊は、

倉敷代官所を焼き討ちにし、

仲間のほう起を待ったが、果たせず、

一部は呼松の田中家から船で山口に向かった。

そのときに、たまたま,

ともさんのおじいさんもその場にいた。

 

さて、天城藩の支配の影響を強く受けた広江では、

5人組政策の影響もあり、

かえって地元の結束は強くなった。

福江との水争いでも一致団結ぶりを示した。

なにしろ、広江以外から入って来た者は、

養子であろうと信用しなかった。

隣の家に来た養子でも、

我が家の縁先までしか入れなかったと言う。

 

       今は団地や新興住宅地が入り混じり、

まったくそういうことはない。

 

お上の言う事には、全面的に従う。

日本には、そういう時代が長く続いた。