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第二カメ割り事件
コンビナート建設のため呼松沖を埋め立てようとしたとき、 土ガメの破片がたくさん出てきた。 網を入れるとたびたび引っかかるので、 呼松の漁師は、 みんなその存在を知っていた。 さて、真さんの調べたかめ割り事件は明治13年の出来事。 ところが、 「瀬戸内のミステリー 沈む島消えた町 -山陽新聞社−吉沢利忠」 の福田新田の悲劇の項によると、 明治16年にも、再び、かめ割り事件が起こっている。 名づけて『第二かめ割り事件』である。
それによると・・・・、
岡田・新見・足守・庭瀬などの備中地方の 旧諸藩の還禄士族320人で結成した吉備開墾社。 明治の時代になって今までのように、 農民から年貢をもらえない。 自分たちで仕事を見つけて 稼がねばならない。 そこで、膨大な計画を立てた。 福田新田の南・松江・南畝・塩生・宇野津・呼松の沖に3357mの干拓堤防を築いて、 干潟を農地にし、還禄士族320人とその家族を入植し、 綿作をすすめて、 やがて紡績工場を立ち上げるというもの。 明治14年7月、 政府から10000円を借り入れ、 総工費105505円の事業が始まった。 しかし、堤防の築造に使う材木の入手がうまくいかず、 ためしに作った材木なしの堤防は12月の大潮であっけなくくずれた。 翌年、明治15年、農商務省に指導を仰いで、 干拓面積を計画の半分に縮小、 海中に土ガメを並べていく築提を進めることになった。 漆喰堤防である。 再び政府から10000円の借金をし、 工事再開。 明治16年春にその一部分が完成した。 とりあえず、そのしきりの中は養魚場とした。 一方、 自分達の漁場を再び失う事になる呼松地区の漁民は、 宇頭間の土ガメ製造所を襲撃し、 吉備開墾社側と乱闘騒ぎになった。 この事件は、当時の新聞に短いニュースとして伝えられた。 9月4日の出来事であった。 この干拓は呼松漁民の抵抗にもかかわらず、 工事は着々と進んでいった。 このままいくと、働き場所が縮小されてしまう。 ところが、1年後、思いもかけないことがおこる。 翌17年、8月25日に台風と高潮が重なった。 福田地方に多大な被害を与えたこの大波は、 吉備開墾社の苦労と夢、 完成しつつあった干拓地や養魚場、 その他、すべてのものも流し去ってしまった。
それから、再び、吉備開墾社の名前を聞くことはない。 これが、第二のかめ割事件である。
今は、石油タンクと倉庫、それに遊休地となっている呼松と宇野津の沖。 干拓が完成し、入植して、予定通り紡績工場ができていたら・・・。 桜田淳子や山口百恵をCMに使って、 学生服の全国シェアの大半を握った尾崎商事や明石被服よりも、 いち早く大きな会社になっていたかもしれない。 そうなると、住民が増えて、もう一つ小学校ができ、 宇野津の子ども達は今のようにバスで本荘小まで 通わなくてもよかったかもしれない。
もし、干拓が成功していたら、 呼松はどうなっているのだろうか。
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