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港と船
緑地帯はなくて、家のすぐ前まで海だった。 今の子供達にはうまくイメージできないだろう。 これは、水門の馬の石仏があるあたりから写したもの。 隣の家の中原精米業者がフル操業していた頃。
風と機械の両方で進む貨物船。 船の先と水門の土手に30cm×5mぐらいの板をかけ、 荷物を出し入れしていた。 小学生の時、船の中に入らせてもらえるチャンスがあったが、 残念。 こわくてその板が渡れなかった。
昭和40年代になると、 モーターボートが庶民にも手に入るようになった。 これに初めて乗ったときは、 船先がぐっと持ち上がるのと波しぶきにびっくりした。
これは、まだ風の力だけで進んでいたころ。
一方、川では、川船(高瀬船)が使われていた。 尾道・玉島から海上輸送された肥料や、 明石からのイグサの染土はいったん、 呼松港に上げられ、 川船に積め替えられて、 樋之輪の水門をくぐって福田の各農家へ配られた。 反対に、年貢米は川船で、 樋之輪の水門をくぐって呼松に運ばれていった。 樋之輪の水門では、 内外の水位の差が15cmになるまで、 じっと待っている船がたまっていることがあった。 福田だけでなく、はるか上流の高梁の方からも、 川船で荷物を運んで来ていた。 そういう人たちは、呼松の田中家で一服した。 当然、食事も出してもらったのだが、 川船の船頭たちの食事や宿の世話は、 主に、福田の港の浜中屋がした。 (今の仁科百貨店 ) その田中藤平家は、 古新田に一番の上田を持っていた。 川船で小作料の年貢米を呼松の水門まで運ぶと、 藤平氏はポケットに片手をいれて、 「それ、手を出せ。」 といって10銭硬貨を数えながら渡した。 当時の日当が50銭位だった。 仲仕が、船から倉庫に米俵を運んでいる間、 小作人には酒食がふるまわれた。 藤平氏の田の小作料は、 他の福田新開の野崎の小作料の1反に1石に比べて高く、 1石4斗だった。 いくら作柄が悪い年でも、 団体で交渉すると、一歩も譲らなかったらしい。 ところが、一人でこっそり交渉すると、 「そうか、それでは1斗負けてやろう。」 と安くなったということだ。 |