公害

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大好きだった祖父を、工場の煙が原因で気管支喘息でなくし、

小学校の担任の先生は、健康を理由に1年で転勤していった。

毎日、プールサイドには指でこすりとれるほど煤煙がたまっていた。

あさがおはさかなくなり、テレビのアンテナは腐食した。

洗濯物が外でほせなくなり、中学校では光化学スモッグで体育が中止となった。

93年、呼松を見守りつづけた松下のおじいちゃんにはどう映ったか。


水島コンビナートの発展とともに月日は流れた。

その間、予想もしなかった問題が数多く発生した。

いわゆる公害である。

昭和38年、企業の煙突から出る煤煙公害。

硫黄酸化物の発生による被害は、地域住民の人命をも脅かし、

周辺一帯の農作物にも多大な影響を与え、

もはや一刻の猶予もならない事態となった。

これに狼狽した県や市は一部企業の運転を停止し、

地域の医師を総動員して患者の救済にあたるか゛、

今までに経験のない事態に治療の効果はあがらず、

逆に新しい患者の続出を見ることになる。

重病患者は入院、症状の軽い患者は応急処置にて自宅療養となる。

公害は社会問題と化し、日本全国に伝わる。

この対策に、コンビナート隣接の部落の集団移転の話が起こると、

いち早く、住み慣れた故郷を捨てて移転していく若者もいた。

呼松からも40軒あまりが移転していった。

公害防止対策には、中央よりその道の権威者を招き、

県、市、企業との合同会議にて指導を受け、

地上180メートルの超高層煙突8基の建設が義務付けられた。

これにより、どの位の効果があるかが注目された。

やがて、コンビナートの各社毎に、

巨大な3本の煙突を上部で一つにした超高層の集合煙突8基が完成した。

注目された硫黄酸化物の排出メーターの値は、

以前の五分の一と希薄になり、

住民の不安は幾分かはやわらぐものの、

公害患者問題はその後も長期にわたり禍根を残す。

自宅療養患者の容態も特に改善はされず、

全快者もなかった。

一部の重患者は数社の企業を相手取り提訴に踏み切る。

裁判は長期にわたり、年号も変わって、

平成10年、ついに和解となる。