異臭漁(公害2)

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昭和39年、

呼松水路から港の奥までの延長4キロにわたる海面に、

大量の魚が浮いて死んでいた。

長年の漁師生活の中でも見たことのない光景に目を疑った。

我ら組合員は非常招集がかかり、

県と市、また周辺の企業へも直ちに通告、

原因の究明を急いだ。

その量たるや、4トン積トラック満杯であった。

このうわさはあっという間に市内の消費者の耳に入り、

みんなが口をそろえたように、

「呼松の魚は食べられぬ。」と言われ、

沖で捕ってきた魚まで公害魚のレッテルを貼られ、

魚離れの傾向は日がたつに従い強くなった。

問題を重く見た市と県は、

水路周辺の企業との合同会議を開き、

関係者から事情を聞くが、白黒の判定がつかず、

倉敷市に原因究明を受託一任することになった。

3日後、市の総務部長板谷氏が組合へ説明にきた。

内容は次のようなものであった。

このたびの件に関して水路沿線の企業を一社毎に訪ね、

製品の製造過程での薬品の配合に誤りがあったのではないかと、

現場の説明を聞いて回り、

工業排水を採取して検査したが、

いずれの企業にも異常は認められなかった。

また、死魚についても解剖の結果、特に異常は認められず、

原因として考えられることは、

海水中の酸素欠乏によるものではないかと結論づけた。

この漁民の期待を裏切る市の回答に、不満は爆発し場内は騒然となった。

あれだけの量の死魚をわずか一日や二日で、

果たしてどれだけ解剖検査してのことか。

また、海水中の酸素濃度も具体的な数字も提示せず、

ただ、酸素欠乏であったの一語に終わった。

あのような大問題を、ただ市を信用し、

一任した我らにも落ち度があったと、30年余り経った今でも、

当時の総合理事の一人として深く反省し残念に思う。

翌年になって、去年の心配が現実のものになって、

新たな問題を引き起こした。

異臭魚である。

高度経済成長の波に乗り、

コンビナートの各企業は連日フル操業が続いた。

コンビナート全体で一日に使う水量は約4万トン。

そして、工場廃水として水島港内へ流出され、

不純物が沈殿する。

そこにプランクトンが発生し、えさを求めて魚が集まる。

港の中は大型船の入港にあわせて深く掘られており、

港の外より水温が少し高く、水中の桟橋は漁礁の役目をする。

これらの好条件がそろうと、魚は港の外に出ない。

これが、異臭魚発生の理屈と考える。

当初、商人は異臭魚とはわからず仕入れ、販売。

その後、消費者より油くさいとの苦情、

こうして、異臭魚騒動が始まった。

誰からともなく、水島港のメバルは異臭魚であるとの噂が広まり、

漁師が捕ってきて競りにかけるも値がつかず、

買い手もなく、引き取り処分するしかなかった。

水島港以外のところで捕れた魚だから、異臭魚でないと言って、

高級魚としてのメバルの価値を訴えるが、

商人は信用あっての商売と言って、これを辞退する。

商人の中には消費者への賠償と売れ行き低下のため、

やむなく店を閉める者もいた。

そして、市場は次第に活気を失っていった。