日露戦争実戦談(実父より聞く)
父は明治12年呼松に生まれる。
33年、徴兵検査で甲種合格となる。
男子としてこれに過ぎたる名誉なしと威張る。
所管の姫路第10師団に入営、3ケ年の軍隊教育を受け、上等兵となる。
当時、上等兵は兵卒中最上級であった。
除隊となり家業の漁業に専念する。
37年、日露の風雲急を告げ招集赤紙来る。
再度の入隊で、新兵教育係として勤務すること2ケ月にして、
急遽渡満の命下る。
各駅沿線は住民の日の丸旗に埋り、歓呼の声に送られて宇品港につく。
小学校舎に宿泊、翌日家族と面会、
我が子を背負う妻を見て、これが最期になるやもと我が子の頭に手がすがる。
ふるえるその手で妻の手を固く握りて別れを惜しむ。
周囲の状況みな同じ、中に若き二等兵、
新婚間もない新妻は声を放ちて泣き叫ぶ。
我に省りて戦友もしばし別れに息をのむ、
最期の別れと誰が知る。
正午を合図に集合ラッパが鳴り響く。
規律正しく整列し、点検終わり、上官よりの訓示あり。
名誉ある諸君は日本帝国の軍人である。
この度の戦は国家浮沈の大戦である。
戦功をたて、子孫に我が名を残し、
生きて母国の土を踏まずの覚悟で出陣せよ。
戦勝は諸君等の双肩にかかっている。
上官の命令はその如何を問わず直ちに服従する。
軍律を守る。
以上、簡単なる訓示であった。
一も二もなく国家のためが至上命令であった。
意気高々と万歳を叫ぶ。
御用船へと乗り移る。
血気にはやる青年兵士の心境は、
死はごう鴻毛よりも軽しと心して戦地へ向かった。
宇品港出港してより7時間、玄界灘を一路満州へと着いた所は朝鮮仁川港。
上官の指示に従い、強行軍。
ようやく先発隊に合流する。
生気を取り戻した戦友は、
戦況は一進一退で諸君等の援軍を待つとのこと。
近日中に奉天総攻撃の風説あり、
連隊の編成あり、偶然同郷の戦友田中勝次と会う。
軍の編成が終わり、2日後、奉天総攻撃に移る。
前回攻撃にて多数の死傷者続出するも、
機を逸せず第3回総攻撃に移る。
肉弾に次ぐ肉弾で、戦死者は折り重なりて倒れる。
最後の突撃に腹這いより膝立ての瞬間、
小銃弾に右大腿部を撃たれ、歩行不能となる。
担架で後退、野戦病院へ収容される。
翌々日、奉天城陥落を聞き、
病院内は歓声に沸き、万歳にどよめく。
我が中隊にも65名の戦死者を出す。
郷土戦友、田中勝次、中田伊勢松、田中梅吉の3名の戦死者が出る。
負傷した父は名誉の負傷兵として、内地送還療養生活2ヶ月にして退院除隊となる。
勲八等従軍記章受賞。
無言の凱旋した英霊は郷土呼松安楽院南に勲八等功七級の石碑が建つ。
一世紀に近い年月の経過と共に、
国家のために戦死した英霊も寂しく香の煙もときたまである。
平成の今日、戦争という無意味な人間の悪遊戯と考え関心は薄い。
しかしながら、戦争には必ず利害が伴い、
時代の流れによって戦争は起きる。
国を守り、子孫を守るは国民の義務であり、
戦いに負けると三等国、もしくは属国となる。
国家を守るは精鋭自衛隊。
大正、昭和と違い、独立独歩は許されず、
世界平和の歩調を合わせ、
金では済まないカンボジア行きは海外派遣の自衛隊。
命をかけての出征に国家を思う責任を果たして、帰りを待つ家族。
国連中心の世界平和遂行は、
日本国憲法改正され、
将来は日本国にも徴兵制が再現するのではないかと危惧される。