舞台は水島灘漁場埋め立てに移る

昭和27年に入るや、埋め立て予定地にある漁場には、
見慣れぬ小型舟10数艘が縦横無尽に走り、
浚渫船団の入港のため海面には浮標を投入してあり、
漁業中止となる。
さらに、海底には船団停泊用のワイヤーや大アンカ、
1.5米大のパイプなどが長蛇の如く張り巡らされ、
漁場はさながら戦場の様相に一変した。
漁業操業は危険が伴うため一時休業。
29年になって浚渫作業も安定し、
藻上漁民の再度出漁始まる。
1年間の浚渫によって、かつての漁場は変わった。
海は陸となり、浅き海底は深海になり、
浚渫船の作業能力を見て漁民驚く。
浚渫により海底に住む餌虫や小貝が掘出され、
これに魚が集まり群れをなす。
これを見て漁民が網を入れる。
浚渫船より危険場所を知らせる信号あるにも関わらず、
県と漁組の契約に、
「浚渫作業に支障なき限り、漁業操業が優先する。
但し、両者互譲の精神は尊重する。」
とあり、浚渫船周辺での漁業を巡り両者口論絶えず。
いつも損害を受けるのは漁民であり、
出漁も漸次減少となる。
昭和30年、漁場埋め立ては最高潮、
海は陸となり、工場建築は急ピッチ、
高度成長の波に乗る。
水島港の造成は海陸護岸の原型できあがり、
港の威容を示す。
昭和40年、かくして大小合わせて200社に及ぶ
水島全企業によるフル操業となり、今日に続く。
平成10年、水島港の出荷額は1670億円であったと聞く。