倉敷海軍航空隊

倉敷海軍航空隊は昭和19年11月1日、
紙切れ一枚で土地の住民を移転させ、
松江の王島山南一帯に開設された。
〔今の双葉製作所の辺りが正門〕
庁舎、士官宿舎、指令公舎等を備えた、
飛行術、通信術、射撃術などの軍事的なものから
国語、数学などの普通学科も行う、
飛行予科練習生の教育施設であった。
つまり、海軍の戦闘機パイロット養成学校であった。
敵国語だというので、
野球のストライクまで日本語に言い直していたこの頃、
「外国に行って英語が話せないようでは予科練の恥だ。」
ということで、英語もきちんと教科の中にあった。
年は今の中学3年生。
冬の寒い朝5時、
パンツ・シャツ姿で駆け足することから一日が始まった。
ラグビー、相撲、棒倒し等で相手と戦う体と心を鍛えた。

多いときで4500名もの予科練生が倉敷航空隊に配属された。

しかし、
「本土決戦。神州不滅。」
「竹やり一千万本。一人一殺。」
「一億玉砕。」
の勇ましいスローガンとはうらはらに
戦局は悪化。
四国・九州の軍事施設への爆撃が続き、
ついに東京にもじゅうたん爆撃が。

昭和20年3月。
予科練教育は中止となり、
防空壕や防空陣地の土木工事に明け暮れることとなった。
王島山に横穴を掘り、地下司令室や兵員の集合所を、
広江の千人塚の横には通信隊の地下壕を構築した。
また、松の根のヤニから航空機用燃料を作ったり、
王島山南に上浜式の塩田を作り塩の生産にあたったり、
毛皮をとるためヌートリアの飼育にあたったりした。


4月、ヒットラー自決。
3国同盟のドイツ・イタリア崩壊。
日本各地にも空襲が激しくなる。
6月、倉敷をはじめ全国の予科練は、
十分な操縦術の教育を受けないまま、
西日本各地や朝鮮半島の決戦地へ
実施部隊として配置されることとなった。
一部は市内四ヶ所の対空高射砲陣地に
倉敷陸戦隊として配置され、
砲台を管理することになった。
また、一部は爆雷を持って海岸線の穴の中に潜み、
上陸したアメリカ戦車に自ら体当たりする
「水際特攻隊」、
爆弾付ベニア製モーターボートで敵艦隊に自ら体当たりする
「震洋特攻隊」の配置についた。


そして、運命の6月22日。
いつもなら、2万人の従業員や徴用工が働く
三菱重工水島航空機製作所。
日の丸の鉢巻をしめ、校名のプラカードを持ち、
列を組んで校歌・軍歌を歌いながら女学生が集まり、
一機でも多くの飛行機をと製作に当たる。
〔男手はみんな戦場に行き、実際に飛行機を組み立てていたのは
機械仕事に慣れていない女学生で、
組み立てが終了しても不具合が多く発生し、
実際に使用できたのは少なかった。〕
この日は月2回の休みの日にあたり、人的被害は少なかった。
が、工場は壊滅状態。


敵の編隊に対して撃墜すべき日本軍機は姿を現さず、
滑走路の陸機も攻撃を受けっぱなしであった。
なぜなら、これらの一式陸攻を管理していたのは
相模野海軍航空隊水島分遣隊で、
自らは攻撃できない整備航空隊だったからであった。
四ヶ所の対空高射砲も、B29の編隊には届かない。

予科練生の週に一度の休みの日には、
地元の家でギン飯やお汁粉、あんころもちのもてなしもあったらしいが、
実質的に武器を持たない予科練生改め整備航空隊員は、
防空壕に逃げるしか術はなかった。



さて、半年あまりしか専修課程を受けることができず、
土木作業に明け暮れた後、全国に散った予科練生。
ひと年が過ぎて、
自分たちの青春の一ページを確認したくなった。
倉敷海軍航空隊の一人・矢沢昭郎さんは、
水島を訪れたが、
あまりの変わりように航空隊の位置を確認できなかった。
東京から何度か足を運び、
やっと半分削られた王島山を探し当てた。
「何とかギン飯やお汁粉のもてなしの恩返しをしたい。」
「そうだ。この王島山に桜を植えたい。」
東京に帰って倉敷市役所に問い合わせ、
全国の倉敷海軍航空隊22期生にも呼びかけた。
話はとんとん拍子に進んだ。

あの日から47年後の1992年6月。
「倉敷海軍航空隊跡探訪会」32名は、
桜植樹記念に松江公民館で、
地元の70名と交歓会を行った。



今では植樹された桜の数も増え、
花の季節にはそれは見事に咲き誇る。

まるで、あの戦争なんてなかったかのように・・・。