視覚の能動性とリミッターについての雑学
この世界はいろんないろにあふれている。
あざやかな花の色、草木の緑色、川の水色、屋根の赤い色・・・
あげればきりがないぐらい沢山の色があふれている。
色があるっていうことは生きているっていうことなのかもしれないと私は思う。
いろんなものが躍動してその生命エネルギーが色として私たちの視覚に訴えかけるのではないだろうか。
う〜ん。視覚の能動性というものだろう。
視覚は私たちの五感のうちでたった一つだけ受動的ではなく、能動的な感覚である。
私たちは音がしたならはきっと同じ距離にいる人は音という信号刺激を同じように受け取ることができる。
その受け取り方に差があるとしたとしても。
味覚もそうだ、触覚のそうだ、嗅覚もそうだ。
だけど、視覚は違う。
見たものすべてを私たちは刺激として認識しているわけではないのだ。
視覚には他のものよりも多く閾値というものが存在する。
だから同じ景色を見たとしてもすべての人が同じように感じることが出来ないのだ。
たとえば普段のなにげない風景を写真に取ったものを見ると、私たちは少しだけ違和感を感じるだろう。
写真でとった風景は私たちが普段見ている風景と違うからだ。
たとえば動物園などで檻に入った動物がいたとすると、その檻を無意識的に排除してないかのごとくあつかうように、私たちは自分に関心があるものだけど、瞬間的に強く捉えるという仕組みを持っているのだ。
それは私たちが昔、草原でくらしていたときのなごりなのだ。
少しわき道にそれてしまったが、話を元にもどそう。
私たちの世界は今とても新しい局面を迎えている。
あの世紀の大発見ともいえるリミッターについての諸研究から導き出された、人間が潜在的に持っているけれど普段使うことが出来ない技能を引き出す研究が終盤を迎えようとしている。
人間の持てる力を最大限に発揮出来たら・・・
それは人類の永遠の課題だった。
しかしその人間の永遠の課題であった問題が科学の進歩によって可能になったのだ。
太陽神経系の一部であるA10神経を刺激することによって私たちは本来人間が持っているけれど、出すことが出来なかった力を出すことに成功したのだ。
しかしそれは禁断の果実だったのだ。
なぜあの時こんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。
「なぜ今まで人間にはこんなすばらしい力があったのに使うことが出来なかったのだろうか」ということを・・・・
何も無い灰色の人間
そうした科学の進歩によっていろんな心理的な革命がもたらされた。
それは今世紀を印象付けるぐらい大変な出来事だった。
誰でも自分が持っているすべての力を出し切ることが出来る世界は夢と希望あふれる新しい世界ではなく、今までよりも激しい能力社会を作り上げていった。
今までは人間が持っている力を努力によって使うことが出来る人が、能力があると社会的に認知される社会だったが、これからの社会は、生まれながらにして持っている能力がすべてという社会になった。
ほんの小さい時に子供達は有能か無能かでわけられその評価にともない可能性や教育の恩賞を受けることになった。
だんだん社会には無気力感がつのっていった。
無能だと位置付けられた子供達は路上でたむろして、短い生涯を閉じることになった。
彼らは生きていている意味の無い人間として社会から抹殺されていた。
そんなごみくずのような子供をとてもすまなそうに見つめる老人がいた。
子供を自分の方に抱き寄せ、頬擦りをする。
老人の皮膚はとても柔らかくて暖かかった。
老人からは子供に攻撃をしようとする素振りは感じなかったが、子供はそんな老人が怖かった。
彼らは沢山つらいにあってきていたから誰も信じることなど出来なくなっていたのだ。
老人はそれでもいつも子供を抱き寄せる。
そっと優しく、沢山の愛情と共に・・・
子供達は最初の内は老人を
今まで優しくされたことなどなかったから、老人の前で無防備になってしまう自分というものに耐えられなかったから。
子供はいつもすぐに老人の手のうちから逃げた。
老人が嫌いだったわけではなく、好きになるのが怖かったから。
私の気分によってまた非定期に更新していきたいと思っています。