十島菅原神社の概要

当神社は、鎌倉時代後期の弘安年間(1278〜1288年)に創建されたと伝えられ、室町時代以降は、この地・人吉。相良藩城主相良氏から篤く崇敬された神社である。
神社は、南を正面として、境内には十の島があり、その一番大きな島の中に、本殿が建っており、祭神は菅原道真公で、本殿の中の宮殿(くうでん)に祀られている。
本殿の前面に拝殿があり、東(右)側に饌室(せんしつ)がある。このようなL字型になった建物が、この地球磨の特徴でもある。
当神社は、平成6年7月に国指定重要文化財に指定され、平成9年から12年にかけて、本殿が全面、拝殿、饌室が部分修理なされた。総事業費は、約2億4千8百万円で、文化財保存計画協会が設計管理し、国、県、相良村及び地元氏子がそれぞれ負担した。
神社国指定、本殿解体修理する中で、屋根裏の墨書により、天正17年に領主の相良頼房によって建てられ、拝殿から棟札が発見され、現在の拝殿は宝暦13年(1763)に建築されたことが判明した。
棟札によると、当時は饌室を御供所(おんくしょ)と呼んでおり、宝暦以前の饌室・御供所は、拝殿から離れて建っていたようだ。

修理に携わったスタッフ

「十島菅原神社・歴史的あれこれ!」
当神社は、相良藩菩提寺・願成寺と深い関わりがある。鎌倉時代、建久9年(1198)頃は、上相良(多良木)と下相良(人吉)と、球磨地方は勢力が2分されていたが、戦国時代に入り、下相良氏が上相良氏を支配下に置き、戦国大名相良氏として、葦北,八代郡に進出し、領域を拡大した。また、天正15年の豊臣秀吉の九州征伐においては、相良藩老臣深水宗方(相良村深水に墓地がある)が秀吉に閲し、相良氏の旧領安堵を懇願し、秀吉が、これを許したとある。
相良家20代当主長毎によって天正17年に建立した当十島菅原神社本殿も深水宗方氏が関わっている。その建設には、真言宗願成寺の僧である勢辰と長毎の家臣深水宗方が関わった。その勢辰は願成寺の13代住職で、長毎と共に文禄の役(1592)に従軍し、その功によって宝勝寺・安養寺(あんにょーじ)・後の蓮花院(現松本歯科・十島文庫)を賜っている。彼はその後、この地十島を隠居の地とする。
※当寺の仏像・観音像は、人吉球磨33観音14番札所として、花立〜蔵城〜現在地(旧十島公民館跡地)へ移転する。
 (旧暦の6月17日は、地元民で祀る夏祭り観音が毎年行なわれる。ちなみに、神社夏祭り・池さらいは、以前旧暦の18日)
《許由巣父図》
中国古代の堯時代の隠士(いんし・隠者・教養や才能を持ちながら、世をのがれて、山野にかくれ住んでいる人)の許由(きょゆう)と巣父(そうほ)の図。
許由は、帝堯が自分に帝位を譲ろうというのを聞いて、耳が汚れたと川で耳を洗っているところへ、この川の水を牛に飲ませようとしてやって来た巣父がその話を聞き、牛に汚れた水は与えられないからとそのまま立ち去ったという姿が描かれている。

トップへ